玉勝間 / 四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事
皇國の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと氣、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剝、スと洲などの如し。猶有べし。又蟬は、セミセミと啼けば、其聲によれる、本よりの名か、字ノ音をとれるか、是れらはわきまへがたし。此たぐひも猶有べし。文、錢、關などは、字音なる事しるし。然るを此ノ文、錢などになずらへて、いささかも似たるが有れば、皆其字音をとれりと心得るは、ひが事なり。又梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをも彼れを取れる物と思ふめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千萬の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。又今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐひは、まことに韓語をとれるなり。
新字:皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。猶有べし。又蝉は、セミセミと啼けば、其声によれる、本よりの名か、字ノ音をとれるか、是れらはわきまへがたし。此たぐひも猶有べし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るを此ノ文、銭などになずらへて、いささかも似たるが有れば、皆其字音をとれりと心得るは、ひが事なり。又梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをも彼れを取れる物と思ふめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。又今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐひは、まことに韓語をとれるなり。
書き下し
皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
現代語訳
皇国の古言と漢字の音とが、自然に同じであるものも時々ある。「ケ」と「気」、「ヤ」と「耶」、「サカ」と「尺」、「ウマ」と「馬」、「ニ」と「死」、「ハグ」と「剥」、「ス」と「洲」などのようなものである。なおほかにもあるだろう。また「蝉」は、セミセミと鳴くので、その声による元からの名か、字の音を取ったものか、これらは見分けがたい。この類もなおあるだろう。「文(ふみ)」「銭(ぜに)」「関(せき)」などは字音であることが明らかである。ところがこの文・銭などになぞらえて、少しでも似ているものがあれば、みなその字音を取ったのだと理解するのは誤りである。また梵語や朝鮮語などと似ているものがあれば、それもあちらのものを取ったのだと思うようだ。まず、梵語を取ってこちらの言葉にしたものはない。たまたま似ているものがあるのは、自然なことである。千万の言葉の中には、自然に似ているものも同じものも、どうしてないことがあろう。また今の朝鮮の言葉と同じもので、「寺(てら)」「郡(こおり)」などの類は、本当に韓語を取ったのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事古え三韓は、もはら皇朝に従いいて、常に参り通いしかば、おのづからかの国の語のうつれるも有るべく、また本ここに無かりし物の、かの国より渡りもうで来つるなどは、かの国の名を、やがて用いたるも有るべく、また古え皇国の語を、韓人のならいて、かの国の言にも成れるが、今の世まで朝鮮に残れるも有るべきを、かえりてそれをも、ひたぶるに皆、かしこより出でたらんと思うは、またひが事なり。さてまた古え母をオモと云えること有り。これをも、漢国にて阿母と云うより出でたりと、儒者などは例の云えど、然らず。本よりの古言なり。万葉の東歌には、アモとも詠めれど、それも漢国の阿母によれるには有らず。オモを、東国の言にさ云えるなり。また今の俗言に、たまたまからぶみに見えたる言と、似たるが有るをも、かれを取れりと、例の云うなり。母をカカと云うは、ある漢籍に、家家と云える事あれば、そを取れるなりと、近き世にある人は云えれど、いとあたらぬ事なり。いかにと云うに、さる物遠きから国の書に、稀れに見えたる言を、此方の俗人の、いかでか知りて取り用いる事あらん。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』七の巻 朝鮮の人のことば同じ人のかたりけるは、今朝鮮の国人の語、いやしき者は、訓と字音とを連ねて云い、よろしき者は、字音にて云う。例えばいやしきものは、刀をハンドウ、火をフルハアと云う。ハンは刀の訓、トウはその字音なり。フルは火の訓、ハアはその字音なり。そをよろしき者は、刀をトウ、火をハアと云う。万ずの言、みなこのじょうなりと語りき。この人は、いにし天明三年に、かの国人の、石見の国に漂い来たりけるに、しばしば逢いて、語る言を聞けるなりと云えり。訓と云うは、かの国の言、字音は漢字のかの国の音なり。
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『玉勝間』十四の巻 から国の詞つかひ皇国の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり。たとえば罕言と云うこと、皇国言にては、稀れに云うと云うと、云う事まれなりと云うと、心ばえ異なり。稀れにいうは、言と云うこと主となりて、罕ながらも云う事の有る事なり。云うことまれなりは、罕と云うこと主となりて、云うことの稀れなるなり。他の言もこのたぐい多し。すべての事皆かくの如し。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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