玉勝間 / 十の巻 出雲国なる黄泉の穴
又かの翁が云ひけるは、此穴より毒氣の昇る事あるに、觸れぬれば、たちまちに息絕るなりと、云ひ傳へたり、と云ふを聞くに、しばし覗きて見る程も、いとけ恐しけれど、よく見て歸らずは、ふりはへて見にこしかひ無からむと、いみしく思ひねんじて、猶よく見つるなり。おきな又語りけるは、昔は、此穴の内へ、石を落し入るるに、その石くだりもて行くままに、つぎつぎめぐりの石に觸れゆく音の、しばしが程、遠く聞えこしを、四十年ばかりあなたに、或るものの、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有し、其ののちは、石を落せども、音久しくは聞えずなりぬるは、かの大石の、半ばにとどこほりて、それにせかるる故なめり、とぞ語りける。又むかし鰐淵寺をはじめ給へりし、智證上人と申す、此穴に入定し給ひぬるよし、かの寺の緣記にも見えたり、と聞けりなども語る。さて此山のすべての名は、奧岡の山と云ひて、その中に、此穴の有る近きあたりをば、ぞうが谷と云ふ。此山のうしろは、鰐淵山に續きて遠からずとぞしるしたりける。
新字:又かの翁が云ひけるは、此穴より毒気の昇る事あるに、触れぬれば、たちまちに息絶るなりと、云ひ伝へたり、と云ふを聞くに、しばし覗きて見る程も、いとけ恐しけれど、よく見て帰らずは、ふりはへて見にこしかひ無からむと、いみしく思ひねんじて、猶よく見つるなり。おきな又語りけるは、昔は、此穴の内へ、石を落し入るるに、その石くだりもて行くままに、つぎつぎめぐりの石に触れゆく音の、しばしが程、遠く聞えこしを、四十年ばかりあなたに、或るものの、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有し、其ののちは、石を落せども、音久しくは聞えずなりぬるは、かの大石の、半ばにとどこほりて、それにせかるる故なめり、とぞ語りける。又むかし鰐淵寺をはじめ給へりし、智証上人と申す、此穴に入定し給ひぬるよし、かの寺の縁記にも見えたり、と聞けりなども語る。さて此山のすべての名は、奥岡の山と云ひて、その中に、此穴の有る近きあたりをば、ぞうが谷と云ふ。此山のうしろは、鰐淵山に続きて遠からずとぞしるしたりける。
書き下し
またかの翁が云いけるは、この穴より毒気の昇る事あるに、触れぬれば、たちまちに息絶ゆるなりと、云い伝えたり、と云うを聞くに、しばし覗きて見る程も、いとけ恐ろしけれど、よく見て帰らずは、ふりはえて見にこしかい無からむと、いみじく思いねんじて、なおよく見つるなり。おきなまた語りけるは、昔は、この穴の内へ、石を落し入るるに、その石くだりもて行くままに、つぎつぎめぐりの石に触れゆく音の、しばしが程、遠く聞えこしを、四十年ばかりあなたに、ある者の、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有りし、その後は、石を落せども、音久しくは聞えずなりぬるは、かの大石の、半ばにとどこおりて、それにせかるる故なめり、とぞ語りける。またむかし鰐淵寺をはじめ給えりし、智証上人と申す、この穴に入定し給いぬるよし、かの寺の縁記にも見えたり、と聞けりなども語る。さてこの山のすべての名は、奥岡の山と云いて、その中に、この穴の有る近きあたりをば、ぞうが谷と云う。この山のうしろは、鰐淵山に続きて遠からずとぞしるしたりける。
現代語訳
またあの翁が言ったのは、「この穴から毒気が昇ることがあって、それに触れるとたちまち息が絶えると言い伝えている」ということで、それを聞くと、しばらく覗いて見る間もたいへん恐ろしかったが、よく見て帰らなければ、わざわざ見に来たかいが無いだろうと、懸命にこらえて、なおよく見たのである。翁はまた、「昔はこの穴の中へ石を落とし入れると、その石が下っていくにつれて、次々に周りの石に触れていく音が、しばらくの間、遠く聞こえてきたが、四十年ほど前に、ある者が大きな石を一つ落としたことがあり、その後は石を落としても音が長くは聞こえなくなったのは、あの大石が途中に引っかかって、それにせき止められるからだろう」と語った。また、「昔、鰐淵寺を開かれた智証上人と申す方が、この穴で入定なさったということが、あの寺の縁起にも見えると聞いている」などとも語る。さてこの山全体の名は奥岡の山といって、その中で、この穴のある近くのあたりを「ぞうが谷」という。この山の背後は鰐淵山に続いていて遠くない、と記してあった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上げたる如くなる石にて、その石皆かど有りて、すべて割れめ多く、色は白く、また黄ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立てたらむようなる、一つの大石にて、この石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤い無く見ゆ。この穴、里人は冥途の穴と云えり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奥岡村のものを、導に率て行きたる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、この穴来て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらい来つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、来て見たることは有りしかど、ここらの年経にければ、のぼる道も、よくも覚えずとて、またこの奥岡の翁をば、それがかたらい来たるにぞ有りける。
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴小篠の御野、いにし寛政六年三月の頃、出雲の大社にもうでたりしおり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉の穴と云うが有るよし、はやく聞けるは、如何なるにかと、問いたりしに、このわたりにも、行き見たる人は無きよし、杵築の人の云うを聞きて、せちに行きて見まほしく思いけれど、年老いたれば、足よわくて、みずからはえ物せで、弟子に斎藤の秀満と云うを、率て物せしに、さらばいまし行きて見てこと云いつけて、やりける。この秀まろは、御野が同じ石見の国の三隅と云う所の人にて、もとより山道を、常に通いならえる人にし有りければ、苦しとも思いたらで、喜びながら、ゆきて見てかえりて、その間の事、委しく書きしるしたりけるを、ここにも見せにおこせたりける。そのあるよう、まず杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海近き所、川下村と云うを過ぎて、奥岡村と云うに至る。かの黄泉の穴は、この村の山に有るなり。海べより十八町のぼる所なり。かくて山はいとしも高からねど、道いとけわしく、石まじりに草高く生いしげり、莿多くて、いといと登りがたし。かの穴は、山の腹に、草深き中に有りて、わずかに見えたり。口は少しせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有るべし。
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴なおゆきかいの道の程の事どもまで、こまかに記したるを、見るにはなおさだかならず覚えて、ここは如何にとなお問い聞かまほしき所も多かれど、しばらく本にしたがいて、その趣をとりて、事をつづめて、よき程にここには記せるなり。さてこの奥岡村よみの穴のあたりを、神門の郡ならむと記したれど、必ず出雲の郡なるべし。さてまた風土記に、宇賀の郷の所に、黄泉之穴と云う所の見えたるは、同郡の内には有れども、磯べにて、窟の内に在る由なれば、この所なるべし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井もと水有りしが、近き頃となりては、あせて、水は無かりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは残れりしと云うを見れば、今は井のかただにのこらず、皆田に成りて、唯だいささかなる所に、古き松一もと立てるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なると云えり。その近き里に、八十八になれりという翁のあるが、語りけるは、此松、おのが若かりしほどに、年老いたる者の、昔も今も同じ事にて、かわらずと云いしを、その頃も今も、又いささか変れる事無く、高くも太くもならず、ただ同じ事なりとぞ語りける。今見るに、さしも大きなる木にも有らず。よろしき程にて、まことに古くは見えたり。今より後、もし此松さえ枯れ失せたらんには、さばかりの御井の、名残りだになく、消えはてなん事、いともいとも心うく、うれわしきわざなれば、いかで石ぶみなどを建てて、跡をだに、長き世まで残さまほしきわざなりかし。さて又かの赤人屋敷と云う所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有り、山辺村の東南のはずれの所なり。こは世のつねの井のさまに、石を積みめぐらして、水も有り、此水、いみしきひでりにもかれずと里人云えり。
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『玉勝間』九の巻 石見国なるしづの岩屋石見の国邑知の郡岩屋村と云うに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云う。出雲・備後のさかいに近き所にて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主の領す地なり。この岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有り。いにしえ大穴牟遅・少彦名二神の、かくれ給いし岩屋なりと、むかしより、里人語り伝えたり。さて古えは、やがてこの岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津権現と申すとぞ。この事、かの国の小篠御野がもとより、ただにかの里人に逢いて、委しく問い聞きつるなりとて、云いおこせたるなり。万葉集三の巻なる歌の、志都の石室は、これならむかとも思えど、なお思うに、万葉なるはいかが有らむ。かの歌のよみぬし、生石の村主真人と云う人、もし石見の国の官人などにて、かの国に在りて、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの国は、他国人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奥どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覚えず。されど後の世の人の、作りて云うべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、ただならぬ所とは聞こえたり。
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『玉勝間』九の巻 檜垣ノ嫗が事さきに萩の下葉の巻に云える、ひがきのおうなが像と云う物の事、肥後の国人に問いしに、語りけるは、かの国飽田の郡白川のあたり、九品山蓮台寺と云う寺に、かの嫗の墓と云う有りて、古き石塔たてり。きざめる文字は無し。かの像と云う物は、同郡に岩殿山と云うに、観音をすえたる岩屋の有る、そのいわ屋のひたいより、掘り出でたりと云えり。この所は、かの嫗の深く信じて、常にもうでし所なりと云い伝えて、そのあたりに、山下庵とて、もうずるたびごとに、立ちよりし所なりと云う寺も有り。又くみて彼の仏にたむけし水とて井も有るなり。されど彼の掘り出でたりと云う像は、まことに偽われる物なるべしと語りき。
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