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玉勝間 / 十の巻 出雲国なる黄泉の穴

丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上たる如くなる石にて、その石皆かど有て、すべて割れめ多く、色は白く、又黃ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、廣さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立たらむやうなる、一つの大石にて、此石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤無く見ゆ。此穴、里人は冥途の穴と云へり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奧岡村のものを、導に率て行たる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、此穴來て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらひ來つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、來て見たることは有しかど、ここらの年經にければ、のぼる道も、よくも覺えずとて、又この奧岡の翁をば、其れがかたらひ來たるにぞ有ける。

新字:丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上たる如くなる石にて、その石皆かど有て、すべて割れめ多く、色は白く、又黄ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立たらむやうなる、一つの大石にて、此石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤無く見ゆ。此穴、里人は冥途の穴と云へり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奥岡村のものを、導に率て行たる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、此穴来て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらひ来つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、来て見たることは有しかど、ここらの年経にければ、のぼる道も、よくも覚えずとて、又この奥岡の翁をば、其れがかたらひ来たるにぞ有ける。

書き下し

丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上げたる如くなる石にて、その石皆かど有りて、すべて割れめ多く、色は白く、また黄ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立てたらむようなる、一つの大石にて、この石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤い無く見ゆ。この穴、里人は冥途の穴と云えり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奥岡村のものを、導に率て行きたる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、この穴来て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらい来つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、来て見たることは有りしかど、ここらの年経にければ、のぼる道も、よくも覚えずとて、またこの奥岡の翁をば、それがかたらい来たるにぞ有りける。

現代語訳

丸く井戸のようなさまで、底は見えない。周りは口から下がみな積み上げたような石で、その石はみな角があって、全体に割れ目が多く、色は白く、また黄ばんだものも混じっている。ところが南側の一面だけは、幅二尺ほどで、長さは一丈五、六尺ほどの板などを立てたような、一つの大石で、この石の下のほうで、穴は少し北の方へ曲がって見えた。全体に口に近い所は、石に苔なども生えているが、下の方はひどく乾いていて、湿り気が無いように見える。この穴を里人は冥途の穴と言っている。そのあたりの者も、多くは知らない。この奥岡村の者で案内に連れて行ったのは、七十歳ほどの翁で、語ったのは、「この穴に来て見た者はたいへん稀である。若い者は、里の者でさえ全く知らない」ということであった。初めに鰐淵寺で頼んで連れて来た案内の翁は、六十歳ほどであったが、若い頃に来て見たことはあったものの、多くの年月が経ったので、登る道もよく覚えていないと言って、またこの奥岡の翁を、その者が頼んで連れて来たのであった。

解説

黄泉の穴の実地の描写が続く。井戸のように丸く、底は見えない。周囲は角ばった白や黄ばんだ石が積み上がったようで、南側だけは板を立てたような一枚の大石になっており、その下で穴は北へ曲がる。口の近くは苔むしているが、奥はからからに乾いている。里人はこれを冥途の穴と呼ぶが、知る者は少なく、七十ばかりの翁は、若い者は里の者でも知らないと言う。最初に頼んだ六十ほどの案内人は道を忘れていて、別の翁を連れてきたという経緯まで書かれる。宣長がこの記録を大事に書き写したのは、この巻の初めで述べた、絶えかけている古いものを書き留めておくという考えの実践でもある。消えかけていた古老の記憶を、この報告はすくい取っている。

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