玉勝間 / 十の巻 出雲国なる黄泉の穴
小篠ノ御野、いにし寛政六年三月の頃、出雲の大社にまうでたりしをり、鰐淵山近きわたりの山に、黃泉の穴と云ふが有るよし、はやく聞るは、如何なるにかと、問ひたりしに、此わたりにも、行見たる人は無きよし、杵築の人の云ふを聞て、せちに行きて見まほしく思ひけれど、年老たれば、足よわくて、みづからはえ物せで、弟子に齋藤ノ秀滿と云ふを、率て物せしに、さらばいまし行て見てこと云ひつけて、やりける。此秀まろは、御野が同じ石見、國の三隅と云ふ所の人にて、もとより山道を、常に通ひならへる人にし有ければ、苦しとも思ひたらで、喜びながら、ゆきて見てかへりて、其間の事、委しく書キしるしたりけるを、ここにも見せにおこせたりける。そのあるやう、まづ杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海近き所、川下村と云ふを過て、奧岡村と云ふに至る。かの黄泉の穴は、此村の山に有なり。海べより十八町のぼる所なり。かくて山はいとしも高からねど、道いとけはしく、石まじりに草高く生ひしげり、莿多くて、いといと登りがたし。かの穴は、山の腹に、草深き中に有りて、わづかに見えたり。口は少しせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有べし。
新字:小篠ノ御野、いにし寛政六年三月の頃、出雲の大社にまうでたりしをり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉の穴と云ふが有るよし、はやく聞るは、如何なるにかと、問ひたりしに、此わたりにも、行見たる人は無きよし、杵築の人の云ふを聞て、せちに行きて見まほしく思ひけれど、年老たれば、足よわくて、みづからはえ物せで、弟子に斎藤ノ秀満と云ふを、率て物せしに、さらばいまし行て見てこと云ひつけて、やりける。此秀まろは、御野が同じ石見、国の三隅と云ふ所の人にて、もとより山道を、常に通ひならへる人にし有ければ、苦しとも思ひたらで、喜びながら、ゆきて見てかへりて、其間の事、委しく書キしるしたりけるを、ここにも見せにおこせたりける。そのあるやう、まづ杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海近き所、川下村と云ふを過て、奥岡村と云ふに至る。かの黄泉の穴は、此村の山に有なり。海べより十八町のぼる所なり。かくて山はいとしも高からねど、道いとけはしく、石まじりに草高く生ひしげり、莿多くて、いといと登りがたし。かの穴は、山の腹に、草深き中に有りて、わづかに見えたり。口は少しせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有べし。
書き下し
小篠の御野、いにし寛政六年三月の頃、出雲の大社にもうでたりしおり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉の穴と云うが有るよし、はやく聞けるは、如何なるにかと、問いたりしに、このわたりにも、行き見たる人は無きよし、杵築の人の云うを聞きて、せちに行きて見まほしく思いけれど、年老いたれば、足よわくて、みずからはえ物せで、弟子に斎藤の秀満と云うを、率て物せしに、さらばいまし行きて見てこと云いつけて、やりける。この秀まろは、御野が同じ石見の国の三隅と云う所の人にて、もとより山道を、常に通いならえる人にし有りければ、苦しとも思いたらで、喜びながら、ゆきて見てかえりて、その間の事、委しく書きしるしたりけるを、ここにも見せにおこせたりける。そのあるよう、まず杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海近き所、川下村と云うを過ぎて、奥岡村と云うに至る。かの黄泉の穴は、この村の山に有るなり。海べより十八町のぼる所なり。かくて山はいとしも高からねど、道いとけわしく、石まじりに草高く生いしげり、莿多くて、いといと登りがたし。かの穴は、山の腹に、草深き中に有りて、わずかに見えたり。口は少しせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有るべし。
現代語訳
小篠御野(おざさみぬ)が、去る寛政六年三月の頃、出雲大社に参詣した折、鰐淵山に近いあたりの山に黄泉の穴というものがあると早くから聞いていたので、どういうものかと尋ねたところ、このあたりにも行って見た人は無いと杵築の人が言うのを聞いて、ぜひとも行って見たいと思ったが、年老いて足が弱く、自分では行けなかったので、連れて来ていた弟子の斎藤秀満という者に、「それではお前が行って見て来い」と言いつけて、行かせた。この秀満は、御野と同じ石見国の三隅という所の人で、もともと山道をいつも行き来し慣れている人であったから、苦しいとも思わず、喜んで行って見て帰り、その間のことを詳しく書き記したのを、私のところにも見せに寄こしてきた。そのありさまは次のとおりである。まず杵築から東へ、鰐淵山を越えて、東北の方、海に近い所の川下村という所を過ぎて、奥岡村という所に至る。あの黄泉の穴は、この村の山にあるのである。海辺から十八町(約二キロ)登る所である。そして山はそれほど高くはないが、道はたいへん険しく、石まじりに草が高く生い茂り、棘が多くて、まことに登りにくい。あの穴は山の中腹の草深い中にあって、わずかに見えた。口は少し狭くて、下の方は差し渡し二尺四、五寸から三尺(七十〜九十センチほど)もあるだろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上げたる如くなる石にて、その石皆かど有りて、すべて割れめ多く、色は白く、また黄ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立てたらむようなる、一つの大石にて、この石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤い無く見ゆ。この穴、里人は冥途の穴と云えり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奥岡村のものを、導に率て行きたる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、この穴来て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらい来つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、来て見たることは有りしかど、ここらの年経にければ、のぼる道も、よくも覚えずとて、またこの奥岡の翁をば、それがかたらい来たるにぞ有りける。
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴またかの翁が云いけるは、この穴より毒気の昇る事あるに、触れぬれば、たちまちに息絶ゆるなりと、云い伝えたり、と云うを聞くに、しばし覗きて見る程も、いとけ恐ろしけれど、よく見て帰らずは、ふりはえて見にこしかい無からむと、いみじく思いねんじて、なおよく見つるなり。おきなまた語りけるは、昔は、この穴の内へ、石を落し入るるに、その石くだりもて行くままに、つぎつぎめぐりの石に触れゆく音の、しばしが程、遠く聞えこしを、四十年ばかりあなたに、ある者の、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有りし、その後は、石を落せども、音久しくは聞えずなりぬるは、かの大石の、半ばにとどこおりて、それにせかるる故なめり、とぞ語りける。またむかし鰐淵寺をはじめ給えりし、智証上人と申す、この穴に入定し給いぬるよし、かの寺の縁記にも見えたり、と聞けりなども語る。さてこの山のすべての名は、奥岡の山と云いて、その中に、この穴の有る近きあたりをば、ぞうが谷と云う。この山のうしろは、鰐淵山に続きて遠からずとぞしるしたりける。
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴なおゆきかいの道の程の事どもまで、こまかに記したるを、見るにはなおさだかならず覚えて、ここは如何にとなお問い聞かまほしき所も多かれど、しばらく本にしたがいて、その趣をとりて、事をつづめて、よき程にここには記せるなり。さてこの奥岡村よみの穴のあたりを、神門の郡ならむと記したれど、必ず出雲の郡なるべし。さてまた風土記に、宇賀の郷の所に、黄泉之穴と云う所の見えたるは、同郡の内には有れども、磯べにて、窟の内に在る由なれば、この所なるべし。
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『玉勝間』九の巻 石見国なるしづの岩屋石見の国邑知の郡岩屋村と云うに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云う。出雲・備後のさかいに近き所にて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主の領す地なり。この岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有り。いにしえ大穴牟遅・少彦名二神の、かくれ給いし岩屋なりと、むかしより、里人語り伝えたり。さて古えは、やがてこの岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津権現と申すとぞ。この事、かの国の小篠御野がもとより、ただにかの里人に逢いて、委しく問い聞きつるなりとて、云いおこせたるなり。万葉集三の巻なる歌の、志都の石室は、これならむかとも思えど、なお思うに、万葉なるはいかが有らむ。かの歌のよみぬし、生石の村主真人と云う人、もし石見の国の官人などにて、かの国に在りて、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの国は、他国人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奥どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覚えず。されど後の世の人の、作りて云うべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、ただならぬ所とは聞こえたり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文また出雲の郡に薗長三里云々、此れ則ち出雲と神門と二郡の堺なりと有るは、薗の長浜長さと有りけむが、長の字よりまがいて、長浜の二字の脱けたるにて、かの薗の松山と同所なるを、山は神門の郡に属き、浜は、出雲の郡に属けるにぞあらむ。北門とは、出雲の国の北面の海を云うなるべし。佐伎之国は、佐の字は、於の誤にて、隠岐の国にやあらむ、出雲より北の方にあたればなり。されどこはなお疑わし。そのよしは下に云うべし。所取与の与の字は、而の誤なり、上下なる例もて知るべし。自多久乃は、島根の郡に、多久の社また多久川あり。秋鹿の郡との堺なり。乃の字は、川の誤か、されど上の自去豆と有る下にも、この字有りて、去豆には川は見えざれば、ここも如何が有らむ。打絶与は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)与の字は、これも而の誤なり。狭田之国は、秋鹿の郡に、佐太川また佐太の水海など見ゆ、これなり。但しここは、秋鹿楯縫二郡の地を云えるなり。北門良波之国は、いまだ考え得ず。そもそも良理流礼呂を、言の頭に置ける例は無き事なれば、良の字は誤なるか。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文この四郡のうち、出雲の郡をのぞきて、三郡は、南の方意宇の郡との中間に、細く長き入海有りて、出雲の郡のみ、意宇神門二郡につづきたり。ここに内山の真龍が考えたるは、神代には、この入海、西の大海へとおりて、出雲の郡も、北の方半は、かの三郡と同じく、入海をへだてて、意宇の郡神門の郡とは、離れてぞ有りけむと云える、今この国引の文を思うにも、まことにさぞ有りけむとぞ覚ゆる。さてこの文に見えたる事どもを、ただ寓言のごとく心得むは、例のから心にぞ有りける。神代には、思いのほかなる、奇しき異しき事どもの有りて、この国土は成り竟えたるなれば、古の伝説を、いささかも疑うべきにあらず。ことごとく実の事なり。ただ文のままに心うべし。
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