玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井
四ッには、齋内親王の宮仕へし給ふことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞ゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかへと云ふべき物かは。唯だ天皇に仕奉る女官たちなる事、論無き物をや。五ッには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕奉る人とこそ聞えたれ。たとひ本は大内より來し人なればとても、今齋王に仕奉り居る人を、うちまかせて然か云はん事はいかが。六ッには、もし齋王の大御神に仕へ給ふ事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七ッには、かの鈴鹿郡なる山ノ邊の事を、俗說なりとて、やぶられたるもあたらず。俗說とは、赤人の跡と云ふ事なり。赤人の事は、山邊といふ地ノ名によりて、附會たる物なれば、其說こそ俗說なれ、それをとり捨たらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云ひよせたるも、もと山邊といふ所、又古き清水のある故なれば、それもかへりて、古き跡なる證とこそすべけれ。又かの山邊村に、古ヘ倭姫ノ命の宮有しと云ふも、僞なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
新字:四ッには、斎内親王の宮仕へし給ふことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞ゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかへと云ふべき物かは。唯だ天皇に仕奉る女官たちなる事、論無き物をや。五ッには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕奉る人とこそ聞えたれ。たとひ本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕奉り居る人を、うちまかせて然か云はん事はいかが。六ッには、もし斎王の大御神に仕へ給ふ事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七ッには、かの鈴鹿郡なる山ノ辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云ふ事なり。赤人の事は、山辺といふ地ノ名によりて、附会たる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨たらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云ひよせたるも、もと山辺といふ所、又古き清水のある故なれば、それもかへりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古ヘ倭姫ノ命の宮有しと云ふも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
書き下し
四つには、斎内親王の宮仕えし給うことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞こゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかえと云うべき物かは。唯だ天皇に仕え奉る女官たちなる事、論無き物をや。五つには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕え奉る人とこそ聞こえたれ。たとい本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕え奉り居る人を、うちまかせて然か云わん事はいかが。六つには、もし斎王の大御神に仕え給う事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七つには、かの鈴鹿郡なる山の辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云う事なり。赤人の事は、山辺という地の名によりて、附会したる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨てたらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云いよせたるも、もと山辺という所、又古き清水のある故なれば、それもかえりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古え倭姫の命の宮有りしと云うも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
現代語訳
四つには、斎内親王(斎王)が宮仕えなさることであるなら、「いつきのみこ」とも「ひめみこ」とも何とでも、その方のことと分かる言葉があるはずなのに、そういうことが一言も無くて、唐突に「大宮仕え」と言うものだろうか。ただ天皇にお仕えする女官たちであることは、論ずるまでもない。五つには、「ももしきの大宮人」とは、天皇にお仕えする人と解されるものだ。たとえもとは内裏から来た人だからといっても、いま斎王にお仕えしている人を、無造作にそう言うことはどうであろうか。六つには、もし斎王が大御神にお仕えなさることを詠んだ歌であるなら、反歌に御井のことだけを詠んでいるのは、どういう理由なのか。七つには、あの鈴鹿郡の山の辺のことを俗説だとして退けておられるのも当たらない。俗説とは、赤人の跡だということである。赤人のことは、山辺という地名によって付会したものだから、その説こそ俗説であるが、それを取り捨てれば何の俗なことがあろうか。そもそもそのように赤人のことを言い寄せたのも、もとは山辺という所で、また古い清水があるからなので、それもかえって古い跡である証拠とすべきである。またあの山辺村に昔、倭姫命の宮があったというのも偽りだとして、その理由を論じておられるのも当たらない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井万葉集の歌によめる、伊勢の国の五十師の原山の辺の御井は、鈴鹿の郡にて、今も山辺村と云う所なり。そこに山辺の赤人の屋敷跡と云い伝えたる地あり。又同じ人の硯水とて、古き井も有り。これ山の辺の御井なり。然るに赤人の事をしも云い伝えたるは、中昔よりして、山部ちょう姓と、山辺ちょう姓とまがいて、赤人の姓をも山の辺とせるから、此地の名につきて、云いよせたるひが事なり。さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし。さて五十師原を、万葉の今の本に、いそしのはらと訓みたれども、古はいそと云うに、五十と書ける事無ければ、誤なり。いしのはらと訓むべし。五十と書けるをば、伊と訓む古書の例なればなり。いしのはらとては、此句六文字にて、調悪ろしと思う人もあるべかめれど、そのかみ七もじの句を、六もじに云える例おおき中に、地の名などは、殊によりくるままに、四文字にも六文字にも詠める、つねの事なり。さていしの原と云う名のよしは、今石薬師の駅に、石薬師とて寺有りて、石の仏をまつれる、そは地の上におのずからに立てる、大きなる石のおもてに、薬師と云う仏のかたをえり附けたるにて、此石あやしき石なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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