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玉勝間 / 十の巻 性情の切なる事夫婦の間にしくは無しと云へる漢人の詞

から人明の何仲默と云へるが言にいはく。夫詩本性情之發者也。其切而易見者、莫如夫婦之間。是以三百篇、首于雎鳩、六義首于風。而漢魏作者。義關君臣朋友、辭必托諸夫婦、以宣欝而達情焉、其旨遠矣。由是觀之、少陵之詩、博涉世故、出於夫婦者常少、而風人之義或缺と云へり。これ誠にさる事なり。然れどもその戀の情を、唯だ君臣朋友などの間の、他事を風すにのみ託へ云ひて、ただにみづから思ふ戀の詩の無きはいかにぞや。もし他事を風すにだに、よく其人を感ぜしむるばかり、情の深くかからむ事ならむには、みつからの、その思ひを述べたる詩も、必ず多く有るべきわざなるに、それ無くては、性情をのぶるわざとは云ひ難かるべし。これを思へば、詩にみづからの戀の詩の無きはかの國人の癖にて、唯だうはべをかざりて、ををしく見せて、誠の心の、めめしきをば、云ひ出でず、包みかくしたる物にこそ有けれ。皇國の歌の、戀の多きぞ、まことに性情をのぶる道には有ける。

新字:から人明の何仲黙と云へるが言にいはく。夫詩本性情之発者也。其切而易見者、莫如夫婦之間。是以三百篇、首于雎鳩、六義首于風。而漢魏作者。義関君臣朋友、辞必托諸夫婦、以宣欝而達情焉、其旨遠矣。由是観之、少陵之詩、博渉世故、出於夫婦者常少、而風人之義或欠と云へり。これ誠にさる事なり。然れどもその恋の情を、唯だ君臣朋友などの間の、他事を風すにのみ託へ云ひて、ただにみづから思ふ恋の詩の無きはいかにぞや。もし他事を風すにだに、よく其人を感ぜしむるばかり、情の深くかからむ事ならむには、みつからの、その思ひを述べたる詩も、必ず多く有るべきわざなるに、それ無くては、性情をのぶるわざとは云ひ難かるべし。これを思へば、詩にみづからの恋の詩の無きはかの国人の癖にて、唯だうはべをかざりて、ををしく見せて、誠の心の、めめしきをば、云ひ出でず、包みかくしたる物にこそ有けれ。皇国の歌の、恋の多きぞ、まことに性情をのぶる道には有ける。

書き下し

から人明の何仲黙と云えるが言にいわく。それ詩は性情の発する者なり。その切にして見易き者は、夫婦の間に如くは莫し。是を以て三百篇は、雎鳩に首め、六義は風に首む。而して漢魏の作者は、義は君臣朋友に関するも、辞は必ず諸を夫婦に託し、以て欝を宣べて情を達す、その旨遠し。是に由りて之を観れば、少陵の詩は、博く世故に渉りて、夫婦に出ずる者常に少なし、而して風人の義或いは欠く、と云えり。これ誠にさる事なり。然れどもその恋の情を、ただ君臣朋友などの間の、他事を風すにのみ託え云いて、ただにみずから思う恋の詩の無きはいかにぞや。もし他事を風すにだに、よくその人を感ぜしむるばかり、情の深くかからむ事ならむには、みずからの、その思いを述べたる詩も、必ず多く有るべきわざなるに、それ無くては、性情をのぶるわざとは云い難かるべし。これを思えば、詩にみずからの恋の詩の無きはかの国人の癖にて、ただうわべをかざりて、おおしく見せて、誠の心の、めめしきをば、云い出でず、包みかくしたる物にこそ有りけれ。皇国の歌の、恋の多きぞ、まことに性情をのぶる道には有りける。

現代語訳

中国の明の何仲黙(何景明)という人の言葉にいう。「そもそも詩は性情(人の本性と感情)が発したものである。そのうち切実で見えやすいものは、夫婦の間に勝るものはない。だから詩経三百篇は雎鳩(関雎、みさごの歌)を冒頭に置き、六義は風を最初に置く。そして漢・魏の作者は、内容が君臣や朋友に関わることでも、言葉は必ず夫婦に託して、鬱屈を述べ情を伝えた。その趣旨は深遠である。この点から見ると、少陵(杜甫)の詩は、広く世の事柄に渉っていて、夫婦から出たものがいつも少なく、詩人の本来の義がときに欠けている」と言っている。これはまことにもっともなことである。けれども、その恋の情を、ただ君臣や朋友などの間の、ほかの事を諷するためにだけ借りて言って、じかに自分自身が思う恋の詩が無いのはどうしたことか。もしほかの事を諷するのにさえ、その人を十分に感動させるほど情が深くかかわるのであれば、自分自身のその思いを述べた詩も、必ず多くあるはずなのに、それが無くては、性情を述べるわざとは言い難いだろう。これを思えば、詩に自分自身の恋の詩が無いのは、あの国の人の癖であって、ただ表面を飾り、男らしく見せて、本当の心の女々しいところは言い出さず、包み隠しているものだったのである。皇国の歌に恋の歌が多いことこそ、まことに性情を述べる道なのであった。

解説

明の文人何景明の詩論を引き、そこから中国の詩と日本の歌の違いを論じた段である。何景明は、詩で最も切実なのは夫婦の情であり、漢魏の詩人は君臣や友への思いも夫婦に託したが、杜甫にはそれが少ないと言う。宣長はこれを認めたうえで一歩踏み込む。恋を他事の譬えにばかり使い、自分自身の恋を詠んだ詩がないのはなぜか。それは表面を飾って雄々しく見せ、女々しい本心を包み隠す癖のせいであり、恋の歌が多い日本の歌こそ真に性情を述べる道だ、という。人の真心はもともと女々しく弱いものだという、宣長の「もののあはれ」論の核心がここに出ている。日本を持ち上げる言い方は時代の言葉だが、強がりの下の本音を言葉にすることを重んじる視点は今も新しい。

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