玉勝間 / 十四の巻 たとへ歌
たとへ歌、なずらへ歌、そへ歌、皆同じ事なるを、古今集の序に、三つに分けたるは、しひてから國の六義と云ふ事に當てむとてのしひごとなり。すべて六義と云ふこと、歌に有る事無し。いみしきしひごとなり。
新字:たとへ歌、なずらへ歌、そへ歌、皆同じ事なるを、古今集の序に、三つに分けたるは、しひてから国の六義と云ふ事に当てむとてのしひごとなり。すべて六義と云ふこと、歌に有る事無し。いみしきしひごとなり。
書き下し
たとえ歌、なずらえ歌、そえ歌、皆同じ事なるを、古今集の序に、三つに分けたるは、しいてから国の六義と云う事に当てむとてのしいごとなり。すべて六義と云うこと、歌に有る事無し。いみじきしいごとなり。
現代語訳
たとえ歌、なずらえ歌、そえ歌は、みな同じことなのに、『古今集』の序で三つに分けているのは、無理に中国の「六義」ということに当てはめようとしたこじつけである。およそ六義ということは、歌にはないことである。ひどいこじつけである。
解説
『古今和歌集』の仮名序が、和歌を「そへ歌・かぞへ歌・なずらへ歌・たとへ歌・ただごと歌・いはひ歌」の六つに分けたことを批判した段である。これは中国最古の詩集『詩経』の序にある詩の六つの分類「六義(風・賦・比・興・雅・頌)」に和歌を当てはめたものである。宣長は、たとえ歌・なずらえ歌・そえ歌はどれも物にたとえて思いを述べる同じものであり、それを三つに分けたのは、無理に六義の数に合わせるためのこじつけだと断じる。そもそも和歌に六義のような分類は存在せず、中国の詩論の枠組みを借りて和歌を語ること自体が誤りだというのである。外から持ち込んだ枠組みに合わせて物事を分類すると、実態をゆがめることがある。
関連する章句
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