玉勝間 / 十の巻 鬼と云ふ物
又淤邇と云ふ名を、隱ノ字の音なりと云へるも、いみしきひがことなり。形をかくすをもて、名とせむには、加久禮などこそは云ひもせめ、その隱ノ字の音をとりて呼ばむ事は、いといと物どほし。さること有べくもあらず。又陰物なる由にて、陰ノ字の音なりと云ふ說も、同じ類ひのひがことなり。淤邇と云ふは、もとよりの古き名なり。又古へよりして、然か云ひし物は、唯だ今の世にも云ふと、同じ物と心得べし。さかしだちて、文字にかかりて云ふ說は、中中にたがへる事、萬づにわたりて、多きぞかし。さて又おにかみと云ふことは、もと漢文の鬼神と云ふより出たることにて、その鬼神は、二字ながら神の事にて、おにには有らざるを、古今集の序などに、おに神と云へるは彼の鬼神を、やかて淤爾と神との事にして云へり。又二つを一つにして、淤邇にもあらず、神にもあらで、唯だたけく恐ろしき物を、おにかみと云ふこと常なり。さて又俗にキジンと云ふは、漢文の鬼神にもあらず、かのオニカミにもあらず。淤邇と云ふとも、いささかこころばへかはれり、俗たる諺に、鬼の女房には、きじんがなると云ふなどは、まさしく女鬼をキジンとは云へるが如し。世ノ中の人の言葉は、あやしき物にて、斯くさまざまに、とほく移り行くわざなりけり。
新字:又淤邇と云ふ名を、隠ノ字の音なりと云へるも、いみしきひがことなり。形をかくすをもて、名とせむには、加久礼などこそは云ひもせめ、その隠ノ字の音をとりて呼ばむ事は、いといと物どほし。さること有べくもあらず。又陰物なる由にて、陰ノ字の音なりと云ふ説も、同じ類ひのひがことなり。淤邇と云ふは、もとよりの古き名なり。又古へよりして、然か云ひし物は、唯だ今の世にも云ふと、同じ物と心得べし。さかしだちて、文字にかかりて云ふ説は、中中にたがへる事、万づにわたりて、多きぞかし。さて又おにかみと云ふことは、もと漢文の鬼神と云ふより出たることにて、その鬼神は、二字ながら神の事にて、おにには有らざるを、古今集の序などに、おに神と云へるは彼の鬼神を、やかて淤爾と神との事にして云へり。又二つを一つにして、淤邇にもあらず、神にもあらで、唯だたけく恐ろしき物を、おにかみと云ふこと常なり。さて又俗にキジンと云ふは、漢文の鬼神にもあらず、かのオニカミにもあらず。淤邇と云ふとも、いささかこころばへかはれり、俗たる諺に、鬼の女房には、きじんがなると云ふなどは、まさしく女鬼をキジンとは云へるが如し。世ノ中の人の言葉は、あやしき物にて、斯くさまざまに、とほく移り行くわざなりけり。
書き下し
また淤邇と云う名を、隠の字の音なりと云えるも、いみじきひがことなり。形をかくすをもて、名とせむには、加久礼などこそは云いもせめ、その隠の字の音をとりて呼ばむ事は、いといと物どおし。さること有るべくもあらず。また陰物なる由にて、陰の字の音なりと云う説も、同じ類いのひがことなり。淤邇と云うは、もとよりの古き名なり。また古えよりして、然か云いし物は、ただ今の世にも云うと、同じ物と心得べし。さかしだちて、文字にかかりて云う説は、なかなかにたがえる事、万づにわたりて、多きぞかし。さてまたおにかみと云うことは、もと漢文の鬼神と云うより出でたることにて、その鬼神は、二字ながら神の事にて、おにには有らざるを、古今集の序などに、おに神と云えるはかの鬼神を、やがて淤爾と神との事にして云えり。また二つを一つにして、淤邇にもあらず、神にもあらで、ただたけく恐ろしき物を、おにかみと云うこと常なり。さてまた俗にキジンと云うは、漢文の鬼神にもあらず、かのオニカミにもあらず。淤邇と云うとも、いささかこころばえかわれり、俗たる諺に、鬼の女房には、きじんがなると云うなどは、まさしく女鬼をキジンとは云えるが如し。世の中の人の言葉は、あやしき物にて、かくさまざまに、とおく移り行くわざなりけり。
現代語訳
また「おに」という名を「隠(おん)」の字の音だというのも、ひどい誤りである。形を隠すことをもって名とするのなら、「かくれ」などとでも言えばよいはずで、わざわざ隠の字の音を取って呼ぶなどというのは、あまりに回りくどい。そんなことがあるはずもない。また陰の物だから「陰(おん)」の字の音だという説も、同類の誤りである。「おに」というのは、もともとの古い名である。また古くからそう言ってきたものは、ただ今の世に言うのと同じものだと心得るべきである。利口ぶって文字にこだわって言う説は、かえって間違っていることが、あらゆる方面にわたって多いのである。さてまた「おにかみ」ということは、もとは漢文の「鬼神」から出たことで、その鬼神は二字とも神のことであって「おに」ではないのに、古今集の序などで「おに神」と言っているのは、あの鬼神をそのまま「おに」と「神」とのこととして言ったのである。また二つを一つにして、おにでもなく神でもなく、ただ猛々しく恐ろしいものを「おにかみ」と言うのが普通である。さてまた俗に「きじん」と言うのは、漢文の鬼神でもなく、あのおにかみでもない。おにと言うのとも少し意味合いが違っていて、俗なことわざに「鬼の女房には鬼神(きじん)がなる」と言うなどは、まさしく女の鬼を「きじん」と言っているようなものである。世の中の人の言葉は不思議なもので、このようにさまざまに、遠く移り変わっていくものなのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 鬼と云ふ物鬼と云うものは、即ち今の世に、女わらべなども云う淤邇にて、古き物語、中むかしの書どもに、多く見えたるさまも、もはら同じ事なり。さて書紀の斉明天皇の御巻に、一本に、宮中に鬼を見ると見え、また、朝倉の山の上に鬼有り云々、など見えたるは、今も云う淤邇なるを、また同じ書の中に、邪鬼、鬼神、姦鬼など有るは、おにと訓めるところも有れど、ただ悪神を云えるなれば、さは訓むべきにあらず。鬼をも、神とは云うべけれど、神を、おにとは云うべからず。さてまた和名抄鬼神部に、人神を鬼と曰う、四声字苑に曰く、鬼は人の死せる神魂なり、和名於邇、或る記に云う、於邇は、隠の音の訛なり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称すと云い、また鬼魅部にも、鬼は和名於爾、或る説に、於爾は隠の字の音の訛なり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に俗に呼びて隠と曰うと云えるは、皆ひがことなり。まず淤邇に鬼の字を書くは、鬼魅の意をとれるなり。魅とは、怪物を云えばなり。また天神、地祇、人鬼とて、人の死にたる神をも、鬼と云う。されどその人鬼は、淤邇にはあたらず。然るにそのわきまえ無く、人鬼のかたをも、ともに淤邇とせるは、字によりて誤れる物なり。すべて字の同じきによりて、名を混え誤れる、このたぐい昔より、物知り人のつねなり。
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『玉勝間』三の巻 心のおに物語ぶみなどに、身にあやまちの有る者の、人はさること知らねども、おのが心からおそるるを、心の鬼と云えり。からぶみ列子の注に、疑心暗鬼を生ず、と云える事あり。こころばえよく似たることなり。
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『玉勝間』十四の巻 御の字御の字の事、もろこしにては、その国の王の事ならでは云わず。臣下に云える事無し。この字即ち王の事をさして云えるが如し。皇国にては、みと云うにこの字をあてたれど、御は天皇に限らず。もとより下々にても尊みて広く云う言なり。大御と云うぞ、大かた天皇に限りて云える。神に申すは、すべて神は天皇とひとしく、御妻を后、御行を幸と云う類なり。されば大御と云うは、もろこしの御の字のつかいざまに近し。さて後には大御を音便にオオンと云いて、天皇にかぎらず広く云う事となり。又その後には、そのオオンのオを省きて、オンと云い、後には又ンをも省きて、オとのみ云う。今の俗には物に書きては、御の字をオンと云えども、口語にはオとのみ云えり。稀れ稀れにオミ帯、オミ袷、オミ足など云う事の有るは、大御てふ古言の、たまたまに残れるなり。されどこはなべてにはわたらぬ事なり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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『玉勝間』十の巻 かぐらかぐらは、古えは、神あそびとぞ云える。さればその歌をも、古今集には、かみあそびの歌とぞしるされたる。神楽と書けるも、古くはかみあそびとぞ訓むべき。かぐらと云う名は、如何なる由にて、いつの程よりか云いそめけむ。六帖の題にはかぐらと書けり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
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