玉勝間 / 十の巻 物まなびの心ばへ
皇國の學びとて、ことにする事は無くて、昔は、唯だから學びをのみしける程に、世世をふるままに、古への事は、やうやうにうとくのみ成りゆき、から國の事は、やうやうに親しくなりもて來つつ、つひにその心は、もはらからざまにうつり果てて、上つ代の事は、物の意はさらにも云はず、言葉だに、聞しらぬ異國のさへづりを聞くがごと、物うとくぞなりにける。斯くて後にいたりて、皇國の學を、もはらとする事も始まりつれども、しか漢意の、久しくしみ附きたる人心にし有れば、唯だ名のみこそ、みくにの學びには有けれ、云ひと云ひ、思ひと思ふ事は、猶みなからにぞ有けるを、みつからも、さは覺えざるなめり。されば近き世、學びの道ひらけて、萬づさかしくなりぬるにつけても、中中にそのからごころのみ、深く盛りには成りて、古、の意は、いよいよ遙かになむなりにけるを、此近き頃になりてぞ、そこに心つきぬる人の出來そめて、世は皆からなる事をさとりて、人も我も、古への心をたづぬる道の、明り初めぬる、しかすがに神直毘大直毘の神のましましける世は、猶行くさきいと賴母しくなむ。
新字:皇国の学びとて、ことにする事は無くて、昔は、唯だから学びをのみしける程に、世世をふるままに、古への事は、やうやうにうとくのみ成りゆき、から国の事は、やうやうに親しくなりもて来つつ、つひにその心は、もはらからざまにうつり果てて、上つ代の事は、物の意はさらにも云はず、言葉だに、聞しらぬ異国のさへづりを聞くがごと、物うとくぞなりにける。斯くて後にいたりて、皇国の学を、もはらとする事も始まりつれども、しか漢意の、久しくしみ附きたる人心にし有れば、唯だ名のみこそ、みくにの学びには有けれ、云ひと云ひ、思ひと思ふ事は、猶みなからにぞ有けるを、みつからも、さは覚えざるなめり。されば近き世、学びの道ひらけて、万づさかしくなりぬるにつけても、中中にそのからごころのみ、深く盛りには成りて、古、の意は、いよいよ遥かになむなりにけるを、此近き頃になりてぞ、そこに心つきぬる人の出来そめて、世は皆からなる事をさとりて、人も我も、古への心をたづぬる道の、明り初めぬる、しかすがに神直毘大直毘の神のましましける世は、猶行くさきいと頼母しくなむ。
書き下し
皇国の学びとて、ことにする事は無くて、昔は、ただから学びをのみしける程に、世々をふるままに、古えの事は、ようようにうとくのみ成りゆき、から国の事は、ようように親しくなりもて来つつ、ついにその心は、もはらからざまにうつり果てて、上つ代の事は、物の意はさらにも云わず、言葉だに、聞きしらぬ異国のさえずりを聞くがごと、物うとくぞなりにける。かくて後にいたりて、皇国の学を、もはらとする事も始まりつれども、しか漢意の、久しくしみ附きたる人心にし有れば、ただ名のみこそ、みくにの学びには有りけれ、云いと云い、思いと思う事は、なおみなからにぞ有りけるを、みずからも、さは覚えざるなめり。されば近き世、学びの道ひらけて、万づさかしくなりぬるにつけても、なかなかにそのからごころのみ、深く盛りには成りて、古の意は、いよいよ遥かになむなりにけるを、この近き頃になりてぞ、そこに心つきぬる人の出で来そめて、世は皆からなる事をさとりて、人も我も、古えの心をたずぬる道の、明り初めぬる、しかすがに神直毘大直毘の神のましましける世は、なお行くさきいと頼もしくなむ。
現代語訳
皇国(日本)の学問といって、特別にすることは無く、昔はただ漢学(中国の学問)ばかりをしていたので、代々を経るにつれて、古代のことはだんだん疎くなっていくばかりで、中国のことはだんだん親しくなっていき、ついにその心はすっかり中国風に移り果ててしまい、上代のことは、物事の意味は言うまでもなく、言葉さえも、聞き慣れない外国の鳥のさえずりを聞くように、よそよそしいものになってしまった。こうして後になって、皇国の学問をもっぱらとすることも始まったけれども、そのように漢意(からごころ=中国風のものの考え方)が長く染みついた人の心であるから、ただ名前だけが御国の学問なのであって、言うこと言うこと、思うこと思うことは、やはりみな中国風だったのに、自分でもそうとは気づいていないようである。だから近い世に学問の道が開けて、万事が賢くなったにつけても、かえってその漢意ばかりが深く盛んになって、古代の心はいよいよ遠くなってしまったのだが、この近頃になってようやく、そこに気づいた人が出始めて、世の中はみな中国風であることを悟り、人も私も、古代の心を尋ねる道が明るくなり始めた。やはり神直毘・大直毘の神(禍を直す神)がおいでになる世であるから、なお行く先はたいへん頼もしいことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 がくもん世の中に学問と云うは、からぶみ学びの事にて、皇国の古をまなぶをば、分けて神学・倭学・国学など云うなるは、例のから国をむねとして、御国をかたわらに成せる云いざまにて、いといとあるまじきことなれども、古はただから書学びのみこそ有りけれ、御国の学びとては、もはらとする者は無かりしかば、おのづから然か云いならうべき勢いなり。しかは有れども、近き世となりては、皇国のをもはらとするともがらも多かれば、からぶみ学びをば、分けて漢学・儒学と云いて、この皇国のをこそ、うけばりてただに学問とは云うべきなれ。仏学なども、他よりは分けて仏学と云えども、法師のともは、それをなむただに学問とは云いて、仏学とは云わざる、これ然るべきことわりなり、国学と云えば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、国の字も事にこそよれ、なおうけばらぬ云いざまなり。世の人の物云いざま、すべて斯かる詞に、内外のわきまえを知らず、外国を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみ読みなれたるからの、ひがことなりかし。
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『直毘霊』皇国魂の定まりて深き妙なる理の籠もれるを、其の意をえ知らぬは、彼の漢国書の垣内に迷い居る故なり、此を出で離れざらんほどは、たとい百年千年の力を尽くして、物学ぶとも、道のためには、何の益なき徒ら業ならんかし、但し古書は、皆漢文に移して書きたれば、彼の国のことも、一わたりは知りてあるべく、文字のことなど知らんためには、漢籍をも、暇あらば学びつべし、皇国魂の定まりて、漂わぬ上にては、害は無きものぞ。
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『玉勝間』十二の巻 物しり人もののことわりを論ずるやう世のものしり人、人の身のうえ、世の中のことわりなどを、さまざま心高く、いとかしこげには論えども、とかく云うもかく云うも、皆からぶみの趣きにて、その垣内を出ずる事あたわざるは、いかにぞや。
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『玉勝間』一の巻 学問して道を知る事学問して道を知らむとならば、まづ漢意をきよくのぞき去るべし。から意のきよくのぞこらぬ程は、いかに古書を読みても考えても、古の意は知りがたく、古の心を知らでは、道は知りがたきわざになむ有りける。そもそも道は、もと学問をして知る事にはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有りける。真心とは、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心を云う。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみ移りて、真心をば失いはてたれば、今は学問せざれば、道をえ知らざるにこそ有れ。
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『玉勝間』七の巻 唐の国人あだし国ある事を知らざりし事かくてそのよく知れる胡国などは、いたずらに広きのみにして、いといやしく悪ろき国なるを、つねに見しり聞き知りては、他国はいずれも皆、かかる物とのみ思えりしから、何事もただ尊きは、吾ひとりと、みだりにほこれるなり。古あだし国の事を、弘く知らざりし程こそ、さも有らめ、近き世になりて、遠き国々の事も、皆よく知られても、なお古よりの癖を、改むる事無く、今に同じさまに、ほこりおるなるを、皇国にても、学問をもする人は、今は万の国々の事をも、大かた知りたるべきに、なお昔よりの癖にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるに彼の国を尊みて、何事も皆、彼の国より始まれるように思い、彼の国より外に、国は無きごと心得居るは、いかなるまどいぞや。
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『玉勝間』一の巻 もろこしぶみをも読むべき事から国の書をも、いとまのひまには、ずいぶんに見るぞ善き。漢籍も見ざれば、その外国のふりの悪しき事も知られず。また古書はみな漢文もて書きたれば、かの国ぶりの文も知らでは、学問もことゆきがたければなり。かの国ぶりの、よろづに悪しき事をよくさとりて、皇国だましいだに強くして、動かざれば、夜ひるからぶみを見ても、心は迷う事無し。然れども、かの国ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理を尽くしたるように、こまかに論い、よさまに説きなせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつり易く、まどい易きならいなれば、から書見むには、つねにこのことを忘るまじきなり。
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