玉勝間 / 九の巻 石見国なるしづの岩屋
石見ノ國邑知ノ郡岩屋村と云ふに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云ふ。出雲備後のさかひに近き所にて、濱田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、濱田の主の領す地なり。此岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有ッ。いにしへ大穴牟遲少彥名二神の、かくれ給ひし岩屋なりと、むかしより、里人語り傳へたり。さて古へは、やがて此岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津權現と申すとぞ。此事、かの國の小篠、御野がもとより、ただにかの里人に逢て、委しく問ひ聞きつるなりとて、云ひおこせたるなり。萬葉集三の卷なる歌の、志都の石室は、是れならむかとも思へど、猶思ふに、萬葉なるは如何が有らむ。かの歌のよみぬし、生石ノ村主眞人と云ふ人、もし石見國の官人などにて、かの國に在て、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの國は、他國人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奧どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覺えず。されど後の世の人の、作りて云ふべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、唯だならぬ所とは聞えたり。
新字:石見ノ国邑知ノ郡岩屋村と云ふに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云ふ。出雲備後のさかひに近き所にて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主の領す地なり。此岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有ッ。いにしへ大穴牟遅少彦名二神の、かくれ給ひし岩屋なりと、むかしより、里人語り伝へたり。さて古へは、やがて此岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津権現と申すとぞ。此事、かの国の小篠、御野がもとより、ただにかの里人に逢て、委しく問ひ聞きつるなりとて、云ひおこせたるなり。万葉集三の巻なる歌の、志都の石室は、是れならむかとも思へど、猶思ふに、万葉なるは如何が有らむ。かの歌のよみぬし、生石ノ村主真人と云ふ人、もし石見国の官人などにて、かの国に在て、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの国は、他国人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奥どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覚えず。されど後の世の人の、作りて云ふべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、唯だならぬ所とは聞えたり。
書き下し
石見の国邑知の郡岩屋村と云うに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云う。出雲・備後のさかいに近き所にて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主の領す地なり。この岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有り。いにしえ大穴牟遅・少彦名二神の、かくれ給いし岩屋なりと、むかしより、里人語り伝えたり。さて古えは、やがてこの岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津権現と申すとぞ。この事、かの国の小篠御野がもとより、ただにかの里人に逢いて、委しく問い聞きつるなりとて、云いおこせたるなり。万葉集三の巻なる歌の、志都の石室は、これならむかとも思えど、なお思うに、万葉なるはいかが有らむ。かの歌のよみぬし、生石の村主真人と云う人、もし石見の国の官人などにて、かの国に在りて、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの国は、他国人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奥どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覚えず。されど後の世の人の、作りて云うべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、ただならぬ所とは聞こえたり。
現代語訳
石見国邑知郡の岩屋村という所に、たいそう大きな岩屋がある。里人は「しづ岩屋」と言う。出雲・備後との境に近い所で、浜田から二十里余り東の方、たいそう山深い所で、浜田の領主の治める土地である。この岩屋は高さ三十五、六間もある大岩屋である。またその近くにも、大きいのや小さいのや岩屋がたくさんある。昔、大穴牟遅(大国主)・少彦名の二神がお隠れになった岩屋だと、昔から里人が語り伝えている。さて昔はそのままこの岩屋を祀っていたが、中頃からそのほかに別に社を建てて祀り、志津権現と申すという。このことは、あの国の小篠御野のもとから、直接その里人に会って詳しく問い聞いたのだと言って、書き送ってきたのである。『万葉集』巻三の歌の「志都の石室」はこれであろうかとも思うが、なお考えると、万葉のものはどうであろうか。あの歌の詠み手の生石村主真人という人が、もし石見国の官人などで、その国にいて行って詠んだのならわからない。そうでないなら、あの国は他国の人が行くことはまれであるのに、ことにそれほど山深い奥地であるならば、世の人が知って詠むはずのものとも思われない。けれども後世の人が作り出して言うような所とも思われないので、必ず古いいわれがあって、ただならぬ所だとは思われる。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 岩屋国々に、おのずからなる洞には有らで、造り構えたる石室の、ここかしこに有る事、おりおり聞く事なり。あまた有る所も有りと云うなり。人皆これを、からぶみに、穴居と云える事の有るを思いて、上つ代の民のすみかならんと、云い思うめれど、御国には、然か民の穴に住めりし事は聞えず。更にさには有らず。中には墓とおぼしきもあめれど、皆然るにも有らじ。今よく思うに、書紀の神武天皇の御巻に、道臣命に勅有りて、大室を忍坂邑に作り、盛に宴饗を設く云云、道臣命是に於て密旨を奉り、窖を忍坂に掘る云云、また綏靖天皇の御巻に、手研耳命片丘の大窖の中に於て、独り大牀に臥す、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山の片そばなどを掘りて、石もて屋を作り構えたる事有けん。さるはなべて民どもなどのする事には有らで、高き人の、殊更に好みてせしにて、大かた古く牟呂と云いし物は、是れなめり。そは何のために、さる構えはしたるにか、其ゆえは知られねど、もしは冬寒き頃、温かなるをめでてにもや有けむ。今国々に有るは、多くは此上つ代の石室の残れるなるべし。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
-
『玉勝間』六の巻 しはつ山 笠縫ノ島古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆいの島こぎかくるたななしおぶね、これは万葉三の巻に、四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船、と有る歌なるを、笠ゆいとは、歌いひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬいの島は、或る人の云わく、ともに津の国なり、しはつ山は、今の世、住吉より東の方、喜連と云う所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、これなり。雄略紀に、十四年正月、呉の国人の参れるところに、云云住吉津に泊まる、この月呉の客の道の為に磯歯津路を通し、呉坂と名づく、と有り。今云う喜連は、久礼を訛れるなり。このところ住吉の郡の東のはて、河内の堺にて、古は河内の国渋河の郡につきて、伎人郷と云いし所なり。今もこの道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとおりて、古に呉の国の人のとおりし道なりと、語り伝えたり。難波の古の図を見るに、住吉の社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。万葉六の巻に、千沼廻より雨ぞ降り来る四八津の泉郎網手綱乾せり濡れあえんかも、右一首、住吉の浜に遊覧して宮に還る時、道の上にて守部王詔に応じて作る歌、と有るにかなえり。さて笠縫の島は、今東生の郡の深江村と云うところ、これなるべし。この所、菅田多く有りて、その菅他所より勝れたり。
-
『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴小篠の御野、いにし寛政六年三月の頃、出雲の大社にもうでたりしおり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉の穴と云うが有るよし、はやく聞けるは、如何なるにかと、問いたりしに、このわたりにも、行き見たる人は無きよし、杵築の人の云うを聞きて、せちに行きて見まほしく思いけれど、年老いたれば、足よわくて、みずからはえ物せで、弟子に斎藤の秀満と云うを、率て物せしに、さらばいまし行きて見てこと云いつけて、やりける。この秀まろは、御野が同じ石見の国の三隅と云う所の人にて、もとより山道を、常に通いならえる人にし有りければ、苦しとも思いたらで、喜びながら、ゆきて見てかえりて、その間の事、委しく書きしるしたりけるを、ここにも見せにおこせたりける。そのあるよう、まず杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海近き所、川下村と云うを過ぎて、奥岡村と云うに至る。かの黄泉の穴は、この村の山に有るなり。海べより十八町のぼる所なり。かくて山はいとしも高からねど、道いとけわしく、石まじりに草高く生いしげり、莿多くて、いといと登りがたし。かの穴は、山の腹に、草深き中に有りて、わずかに見えたり。口は少しせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有るべし。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そもそも古の御井は、此二つのうち、いずれならん、定めがたし。赤人の硯水と云い伝えたるは、初めに云える方なり。ただし百三四十年ばかりもさきに、或人の、此国の事どもしるせる、勢陽雑記という物には、かの赤人の屋敷の事を云いて、その麓に清水有り、赤人の硯水なり、と云い伝えたりとしるせるは、後のかたを云えるように聞こえたり。後のかたは、かの麓というべき所、はじめのかたは、ややさかりて、かの麓とは云うまじき所なればなり。されどこは、たしかにみずから行き見てしるせるか、はた里人の語れるを聞きて、大かたに云えるか、知りがたければ、頼みがたし。そはとまれかくまれ、五十師の原山の辺は、うたがい無く此ところにて、赤人屋敷と云う地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははずるべからずとぞ思わるる。然るを師の万葉考には、五十師原を、五十鈴の原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかえの事に説きなして、鈴鹿の郡の山辺なりと云うを破りて、くさぐさ論ぜられたれども、其説ことごとくあたらぬ事なり。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井万葉集の歌によめる、伊勢の国の五十師の原山の辺の御井は、鈴鹿の郡にて、今も山辺村と云う所なり。そこに山辺の赤人の屋敷跡と云い伝えたる地あり。又同じ人の硯水とて、古き井も有り。これ山の辺の御井なり。然るに赤人の事をしも云い伝えたるは、中昔よりして、山部ちょう姓と、山辺ちょう姓とまがいて、赤人の姓をも山の辺とせるから、此地の名につきて、云いよせたるひが事なり。さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし。さて五十師原を、万葉の今の本に、いそしのはらと訓みたれども、古はいそと云うに、五十と書ける事無ければ、誤なり。いしのはらと訓むべし。五十と書けるをば、伊と訓む古書の例なればなり。いしのはらとては、此句六文字にて、調悪ろしと思う人もあるべかめれど、そのかみ七もじの句を、六もじに云える例おおき中に、地の名などは、殊によりくるままに、四文字にも六文字にも詠める、つねの事なり。さていしの原と云う名のよしは、今石薬師の駅に、石薬師とて寺有りて、石の仏をまつれる、そは地の上におのずからに立てる、大きなる石のおもてに、薬師と云う仏のかたをえり附けたるにて、此石あやしき石なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る