玉勝間 / 八の巻 岩屋
國國に、おのづからなる洞には有らで、造り構へたる石室の、ここかしこに有る事、をりをり聞く事なり。あまた有る所も有ッと云ふなり。人皆これを、からぶみに、穴居と云へる事の有を思ひて、上つ代の民のすみかならんと、云ひ思ふめれど、御國には、然か民の穴に住めりし事は聞えず。更にさには有らず。中には墓とおぼしきもあンめれど、皆然るにも有らじ。今よく思ふに、書紀の神武天皇の御卷に、道臣命に勅有て、作大室於忍坂邑、盛設宴饗云云、道臣命於是奉密旨、掘窖於忍坂云云、また綏靖天皇御卷に、手研耳命於片丘大窖中、獨臥于大牀、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山の片そはなどを掘りて、石もて屋を作り構へたる事有けん。さるはなべて民どもなどのする事には有らで、高き人の、殊更に好みてせしにて、大かた古く牟呂と云ひし物は、是れなめり。そは何のために、さる構へはしたるにか、其ゆゑは知られねど、もしは冬寒き頃、溫かなるをめでてにもや有けむ。今國國に有るは、多くは此上つ代の石室の殘れるなるべし。
新字:国国に、おのづからなる洞には有らで、造り構へたる石室の、ここかしこに有る事、をりをり聞く事なり。あまた有る所も有ッと云ふなり。人皆これを、からぶみに、穴居と云へる事の有を思ひて、上つ代の民のすみかならんと、云ひ思ふめれど、御国には、然か民の穴に住めりし事は聞えず。更にさには有らず。中には墓とおぼしきもあンめれど、皆然るにも有らじ。今よく思ふに、書紀の神武天皇の御巻に、道臣命に勅有て、作大室於忍坂邑、盛設宴饗云云、道臣命於是奉密旨、掘窖於忍坂云云、また綏靖天皇御巻に、手研耳命於片丘大窖中、独臥于大牀、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山の片そはなどを掘りて、石もて屋を作り構へたる事有けん。さるはなべて民どもなどのする事には有らで、高き人の、殊更に好みてせしにて、大かた古く牟呂と云ひし物は、是れなめり。そは何のために、さる構へはしたるにか、其ゆゑは知られねど、もしは冬寒き頃、温かなるをめでてにもや有けむ。今国国に有るは、多くは此上つ代の石室の残れるなるべし。
書き下し
国々に、おのずからなる洞には有らで、造り構えたる石室の、ここかしこに有る事、おりおり聞く事なり。あまた有る所も有りと云うなり。人皆これを、からぶみに、穴居と云える事の有るを思いて、上つ代の民のすみかならんと、云い思うめれど、御国には、然か民の穴に住めりし事は聞えず。更にさには有らず。中には墓とおぼしきもあめれど、皆然るにも有らじ。今よく思うに、書紀の神武天皇の御巻に、道臣命に勅有りて、大室を忍坂邑に作り、盛に宴饗を設く云云、道臣命是に於て密旨を奉り、窖を忍坂に掘る云云、また綏靖天皇の御巻に、手研耳命片丘の大窖の中に於て、独り大牀に臥す、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山の片そばなどを掘りて、石もて屋を作り構えたる事有けん。さるはなべて民どもなどのする事には有らで、高き人の、殊更に好みてせしにて、大かた古く牟呂と云いし物は、是れなめり。そは何のために、さる構えはしたるにか、其ゆえは知られねど、もしは冬寒き頃、温かなるをめでてにもや有けむ。今国々に有るは、多くは此上つ代の石室の残れるなるべし。
現代語訳
国々に、自然にできた洞穴ではなく、造り構えた石室があちこちにあるということを、ときどき聞く。たくさんある所もあるという。人はみなこれを、漢籍に「穴居」ということがあるのを思って、上代の民の住まいであろうと言い、また思っているようだが、わが国では、そのように民が穴に住んでいたことは聞かない。まったくそうではない。中には墓と思われるものもあるようだが、みながそうでもあるまい。今よく考えると、日本書紀の神武天皇の巻に、道臣命に勅命があって「大室を忍坂邑に作り、盛んに宴を設けた」云々、「道臣命はそこで密命を受けて、窖(むろ)を忍坂に掘った」云々、また綏靖天皇の巻に「手研耳命は片丘の大窖の中で、一人大きな床に臥していた」などと見えるものであって、上代には、ふだんの家のほかに、別に山の片側などを掘って、石で家を作り構えたことがあったのだろう。それはすべての民などのすることではなく、身分の高い人がことさらに好んでしたことで、おおよそ古く「むろ」と言ったものはこれであるようだ。それは何のためにそのような構えをしたのか、その理由は知られないが、もしかすると冬の寒い頃に暖かいのを好んでのことでもあったろうか。今国々にあるのは、多くはこの上代の石室が残ったものであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 石見国なるしづの岩屋石見の国邑知の郡岩屋村と云うに、いと大きなる岩屋あり。里人しづ岩屋と云う。出雲・備後のさかいに近き所にて、浜田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、浜田の主の領す地なり。この岩屋、高さ卅五六間も有る大岩屋なり。又その近きほとりにも、大きなる小さき岩屋あまた有り。いにしえ大穴牟遅・少彦名二神の、かくれ給いし岩屋なりと、むかしより、里人語り伝えたり。さて古えは、やがてこの岩屋を祭りしに、中ごろより、その外に別に社をたてて祭る、志津権現と申すとぞ。この事、かの国の小篠御野がもとより、ただにかの里人に逢いて、委しく問い聞きつるなりとて、云いおこせたるなり。万葉集三の巻なる歌の、志都の石室は、これならむかとも思えど、なお思うに、万葉なるはいかが有らむ。かの歌のよみぬし、生石の村主真人と云う人、もし石見の国の官人などにて、かの国に在りて、行きて詠めらむは知らず。さも有らざらむには、かの国は、他国人の行くこと稀れなるに、殊にさばかり山ふかき奥どころならむには、世の人の知りて詠むべき物とも覚えず。されど後の世の人の、作りて云うべき所ともおぼえねば、必ず古きよし有りて、ただならぬ所とは聞こえたり。
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『玉勝間』六の巻 筑紫ノ君石井が事周り六丈は、高さにかなわざれば、六の上に、三十など云う字の有りけむが、落ちたるなるべし。かくてこの石井が造り置きたりし墓のかまえは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考えをも添えたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有りけむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなるかまえを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとたやすくは、出で来がたかるべし。これを思えば、そのかみ国々の国造の身のほども思いはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出でず、見出でたらむ時に、また云いてんとす。
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『玉勝間』六の巻 さぬきの国の山の谷なるあやしきゑり物大和国つぼ坂寺のおくなる山に、五百羅漢のかたとて、石に数百の人のかたを彫りたるあり。或る人の云えるは、これを俗に羅漢としも云うは、あらぬことなり。よく見れば、みな上つ代の人の形なり、神の御しわざと見えたりと云えり。おのれ未だ見ざれども、まことにさぞ有らむとぞ覚ゆる。すべて古き神の御像、またさらぬをも、世にはみなおしなべて、仏のかたと思える多し。また物の形など石にえりたるが、あやしく何ともわきまえ難きなど、世に多かるを見れば、上つ代には、くさぐさ石に物える事の、多かりしなり。神代のしわざをも、今まのあたり見るべき物は、石のみぞ有りける。讃岐の国に、その所の名聞きつるを、忘れたり。いと広き谷ひと谷に、有るかぎりの岩、一つもおちず、大きなるにも小さきにも、ことごとく仏のかたを彫りたる所ありて、その数かぞえ尽くすべからずとぞ。或る人そのさまをよく見て、あまりあやしさに、石工にはからせたるに、大かた日毎に数百人の石つくりをして、三十年ばかりの月日を経て、えらしめずは、かくまでは成し得じ。
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『玉勝間』六の巻 国造いにしえに国造と云いしは、今の世のごと、大きにこそ有らざりけめ、大かた何事も、大名のごとくなる物にて、国々に多く有りしなり。それが中に、国造、また君、また別、また直、また稲置、また県主など云う、色々の有りて、尊き卑しきけじめも有りつるを、そのけじめは、さだかに記せる物無ければ、いずれ尊く、いずれ卑しかりけむ。今ことごとくは、わきまえがたけれど、大かたは皆、国造と同じさまなる物にて、この色々を一つにすべても、国の造と云えりき。書紀などに、伴造国造などあるは、かの色々をすべて、一つに国の造と云えるなり。さてもろこしの国にも、古え封建の制とか云いし代の、諸侯と云う物、これによく似たり。その諸侯に、五等の爵とて、公侯伯子男と、五きざみのしな有りし、それはた国の造、君、別などの色々有りしに似たり。その五しなの中の一つの名をとりて、すべて諸侯と云いしも、またすべてをも国の造と云いしに似たり。もろこしの事は、かの国の学びするともがらは、この諸侯の、五しなの事など、誰もよく知れるを、皇国の古えのさまをば、かえりてよく知れる人無くて国の造の中に、かのくさぐさのしな有りしをも知らず、またかの色々は、いかなるさまの物なりしとも知らで在るは、いかにぞや。
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『玉勝間』十の巻 出雲国なる黄泉の穴丸く井のさまにて、底見えず。めぐりは、口より下皆、積み上げたる如くなる石にて、その石皆かど有りて、すべて割れめ多く、色は白く、また黄ばみたるも交れり。さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを、立てたらむようなる、一つの大石にて、この石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり。すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方はいたくかわきて、潤い無く見ゆ。この穴、里人は冥途の穴と云えり。そのわたりの者も、多くは知らず。この奥岡村のものを、導に率て行きたる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、この穴来て見たる者は、いと稀れなり、年若きは、里の者だに、かつて知らずとぞ語りける。はじめ鰐淵寺にて、かたらい来つるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、若かりし程に、来て見たることは有りしかど、ここらの年経にければ、のぼる道も、よくも覚えずとて、またこの奥岡の翁をば、それがかたらい来たるにぞ有りける。
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『玉勝間』三の巻 むろの木田中の道まろが云えりしは、万葉の歌によみたる、室の木と云うものは、今もいずこにも多く有る物なり。美濃の不破の郡多芸の郡などにて、ひむろとも、ひもろ杉とも云い、伊勢の員弁の郡桑名の郡のあたりにて、たちむろはいむろと云い、尾張の羽栗の郡にて、ねずむろとも、べぼの木ともむろとも云えり。すべて山に多き木にて、地にはうと、高くたつと、二くさ有りて、はう方には大木は無きを、立てるかたには、大きなるも多し。柏子と云う木に似て、又杉にも似たり。二種ともに、実多くなるなりと云えりき。
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