玉勝間 / 六の巻 しはつ山 笠縫ノ島
古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出て見れば笠ゆひの島こぎかくるたななしをぶね、これは萬葉三の卷に、四極山打越見者笠縫之島榜隱無小船、と有る歌なるを、笠ゆひとは、歌ひひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬひの島は、或人の云はく、ともに津ノ國なり、しはつ山は、今ノ世、住吉より東の方、喜連と云ふ所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、是なり。雄畧紀に、十四年正月、吳ノ國人の參れるところに、云云泊於住吉津、是月爲吳客道通磯齒津路、名吳坂と有り。今云ふ喜連は、久禮を訛れるなり。此ところ住吉ノ郡の東のはて、河内の堺にて、古、は河内ノ國澁河ノ郡につきて、伎人郷と云ひし所なり。今も此道、西は住吉の東の門より、東は河內の柏原までとほりて、古、に吳ノ國ノ人のとほりし道なりと、語り傳へたり。難波の古の圖を見るに、住吉ノ社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。萬葉六の卷に、從千沼廻雨曾零來四八津之泉郞網手綱乾有沾將堪香聞、右一首、遊覽住吉濱還宮之時、道上守部王應詔作歌、と有るにかなへり。さて笠縫ノ島は、今東生ノ郡の深江村と云ふところ、是なるべし。此所、菅田多く有て、其菅他所より勝れたり。
新字:古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出て見れば笠ゆひの島こぎかくるたななしをぶね、これは万葉三の巻に、四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船、と有る歌なるを、笠ゆひとは、歌ひひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬひの島は、或人の云はく、ともに津ノ国なり、しはつ山は、今ノ世、住吉より東の方、喜連と云ふ所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、是なり。雄略紀に、十四年正月、呉ノ国人の参れるところに、云云泊於住吉津、是月為呉客道通磯歯津路、名呉坂と有り。今云ふ喜連は、久礼を訛れるなり。此ところ住吉ノ郡の東のはて、河内の堺にて、古、は河内ノ国渋河ノ郡につきて、伎人郷と云ひし所なり。今も此道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとほりて、古、に呉ノ国ノ人のとほりし道なりと、語り伝へたり。難波の古の図を見るに、住吉ノ社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。万葉六の巻に、従千沼廻雨曽零来四八津之泉郎網手綱乾有沾将堪香聞、右一首、遊覧住吉浜還宮之時、道上守部王応詔作歌、と有るにかなへり。さて笠縫ノ島は、今東生ノ郡の深江村と云ふところ、是なるべし。此所、菅田多く有て、其菅他所より勝れたり。
書き下し
古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆいの島こぎかくるたななしおぶね、これは万葉三の巻に、四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船、と有る歌なるを、笠ゆいとは、歌いひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬいの島は、或る人の云わく、ともに津の国なり、しはつ山は、今の世、住吉より東の方、喜連と云う所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、これなり。雄略紀に、十四年正月、呉の国人の参れるところに、云云住吉津に泊まる、この月呉の客の道の為に磯歯津路を通し、呉坂と名づく、と有り。今云う喜連は、久礼を訛れるなり。このところ住吉の郡の東のはて、河内の堺にて、古は河内の国渋河の郡につきて、伎人郷と云いし所なり。今もこの道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとおりて、古に呉の国の人のとおりし道なりと、語り伝えたり。難波の古の図を見るに、住吉の社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。万葉六の巻に、千沼廻より雨ぞ降り来る四八津の泉郎網手綱乾せり濡れあえんかも、右一首、住吉の浜に遊覧して宮に還る時、道の上にて守部王詔に応じて作る歌、と有るにかなえり。さて笠縫の島は、今東生の郡の深江村と云うところ、これなるべし。この所、菅田多く有りて、その菅他所より勝れたり。
現代語訳
古今集の大歌所の歌、しはつ山振りに「しはつ山うち出でて見れば笠ゆいの島こぎかくるたななし小舟(しはつ山を越えて出て見ると、笠ゆいの島に漕ぎ隠れてゆく棚なし小舟が見える)」とあるのは、万葉集巻三に「四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船」とある歌なのを、「笠ゆい」と歌い誤ったのである。さて、しはつ山と笠縫の島とは、ある人が言うには、ともに摂津国である。しはつ山は、今の世で住吉から東の方、喜連という所へ行く道の途中に、岡山の低い坂がある、これである。雄略紀に、十四年正月、呉の国の人が参上したところに「云々、住吉津に泊まった。この月、呉の客のために道を造り、磯歯津路を通して呉坂と名づけた」とある。今いう喜連は「くれ」がなまったものである。この所は住吉郡の東の果て、河内との境で、古は河内国渋河郡に属して伎人郷といった所である。今もこの道は、西は住吉の東の門から、東は河内の柏原まで通っていて、古に呉の国の人が通った道だと語り伝えている。難波の古図を見ると、住吉社の南の方に細江という沼沢があって、そこに「しはつ」と記してある。万葉集巻六に「千沼廻より雨ぞ降り来る四八津の海人網手綱乾せり濡れあえんかも(茅渟の海のほうから雨が降ってくる、しはつの海人が網の綱を干しているが、濡れてしまうだろうか)。右の一首は、住吉の浜に遊覧して宮に還るとき、道の上で守部王が詔に応じて作った歌」とあるのにかなっている。さて笠縫の島は、今の東生郡の深江村というところがそれであろう。この所には菅田が多くあって、その菅はほかの所よりすぐれている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 しはつ山 笠縫ノ島里人昔より笠をぬう事を業として名高く、童謡にもうたえり。今も里の長幸田喜右衛門と云う者の家より、御即位のおりは、内裏へ菅を献る。また讃岐の殿へも、円座の料の菅をまいらすとぞ。延喜の内匠寮式に、伊勢斎王の野宮の装束の中に、御輿の中子の菅蓋一具(菅并びに骨の料の材は、摂津国の笠縫氏より参り来たりて作る)、と有り。笠縫氏は、この所の人にぞ有りけむ。さてこの深江村は、大坂の城より東にあたりて、河内の堺に近し。この地古えは島なりしよし、里人云い伝えたり。まことにこのわたり古は、北の方は難波堀江に続き、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川ども多く流れあいて、広き沼江にて有りしとおぼしくて、難波の古き図のさまも、しか見えたり。また今この里人の語るを聞くに、この村のみ地高くて、ほとりは、いず方もいず方も地ひきし。井など掘れば、葦の根貝のからなど出ずと云えり。かくてこのところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見渡しなれば、島こぎ隠るたななし小船、とは詠めるなりけり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』十二の巻 又妹背山万葉に、せの山を越ゆとあれば、かの村の山なる事明らけし。川中の島は、いかでか越ゆる事あらむ。さてまた川の南にも、岸まで出でたる山有りて、背の山と相向かいたれば、これや妹山ならむとも云うべけれど、その山は、背山よりやや高くて、山のさまも、背の山よりおおしく見えて、妹山とは云うべくもあらず。そのうえ河のあなたにて、大道にあらず。越ゆる山にあらざれば、妹の山せの山越えてと云えるにも、かなわざるをや。とにかくに妹山と云えるは、ただ背の山と云う名につきての、詞のあやのみにて、いわゆる序枕詞のたぐいにぞ有りける。
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『玉勝間』九の巻 妹背山すべて歌に名所を詠めること、その所にいたりて見たるさまを詠めるなどこそ、後の世のと云えども、より所とすべきは有れ、さらぬ恋の歌などに詠めるは、古えのも、ただ古き歌に詠める事をとりて、あやにしたること多ければ、多くはその名どころの考えの証にはなり難きわざなるを、このいもせ山の事、昔より誰も誰も、ただかの古今集の歌にのみなずみて思えるは、委しからぬ事ぞかし。又かの続古今集に、延喜の御とてのせたる歌、玉葉に篁の卿のとせる歌などは、いたく後のさまにて、さらにその世の歌ざまにあらず。云いなしざま古今集なるによれる事しるし。たとい実にその歌どもにも有れ、古今集なるは古く聞こゆれば、かれによれるは論無ければ、まして証にはいかでかなるべき。
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