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玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井

これによりて思ふに、佛をゑりたるは、ほふしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有しによりてぞ、いしの原とは名に負たりけむ。今もそのあたり、廣くかの山邊村のきはまで、同じ野の續ける所なり。かくて萬葉集十三の卷なるかの長歌は、持統天皇の、此國に行幸ありしをりの、行宮のさまをよめりと聞えたれば、かの赤人の屋敷跡と云ふなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此ノ地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寬政元年三月、尾張の名兒屋に物せしかへるさに、立よりて考へしに、まづ山邊村、今はやまべと云ひて、鈴鹿ノ郡にて、河曲ノ郡の堺なり。石藥師ノ驛より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云ひて、西の方は能煩野へ續きて、いといと廣きを、此山邊村は、その野の東のはづれのにはかにくだりたるきはの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのづからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の續きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云へるなりけり。

新字:これによりて思ふに、仏をゑりたるは、ほふしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有しによりてぞ、いしの原とは名に負たりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきはまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしをりの、行宮のさまをよめりと聞えたれば、かの赤人の屋敷跡と云ふなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此ノ地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかへるさに、立よりて考へしに、まづ山辺村、今はやまべと云ひて、鈴鹿ノ郡にて、河曲ノ郡の堺なり。石薬師ノ駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云ひて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはづれのにはかにくだりたるきはの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのづからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云へるなりけり。

書き下し

これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。

現代語訳

このことから考えると、仏を彫ったのは法師のいつものしわざで後の事であり、もとは上代からこの不思議な石があったことによって、「いしの原」という名を負ったのだろう。今もそのあたりは、広くあの山辺村の際まで同じ野が続いている所である。こうして万葉集巻十三のあの長歌は、持統天皇がこの国に行幸なさった折の、行宮(仮の御所)の様子を詠んだものと解されるので、あの赤人の屋敷跡という土地こそが、その行宮の跡であるはずだ。私はこの土地のことが長年なお不審であったので、去る寛政元年三月、尾張の名古屋に出かけた帰り道に立ち寄って考えてみた。まず山辺村は、今は「やまべ」と言って、鈴鹿郡にあり、河曲郡との境である。石薬師の宿場から六、七町もあろうか、野原を行って東北の方角にある。その野は「まりが野」といって、西の方は能煩野へ続いて非常に広いが、この山辺村はその野の東の外れの急に下った際の低い所にあるので、東の方から見れば小山の麓である。だからあの長歌の反歌に「自然にできた錦を張ったような山であるよ」と詠んだのも、西の方からはただ平らな土地の続きであるが、東から見た様子によって「山」と言ったのである。

解説

宣長が実際に現地へ足を運んだ記録である。寛政元年(1789)、名古屋へ出かけた帰りに山辺村へ立ち寄り、宿場からの距離、野の広がり、土地の高低を自分の目で確かめている。そこから反歌の「錦を張れる山かも」という一句に説明を与える。西から来れば平らな野だが、東から見ると村は小山の麓に見える。だから平地のはずの場所を歌人は「山」と詠んだのだ、と。万葉の一語を、書物の上ではなく地形そのもので読み解いたわけである。宣長は松坂で医業を営みながら古事記伝を書き継いだ人で、旅の機会をこうした踏査に充てた。古典の言葉が指すものを実物で確かめる姿勢は、国学が文献学であると同時に、土地と暮らしの学でもあったことを教えている。

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