玉勝間 / 九の巻 つねに異なる字音のことば
字音の言の、昔より云ひなれたるに、常の音とことなる多し。周禮をしゆらい、檀弓をだんぐう、淮南子をゑなんじ、玉篇をごくへん、鄭玄をぢやうげん、孔頴達をくえうだつと云ふ類ひは、吳音なれば、ことも無し。越王句踐を、ゑつとうこうせんと訓むは、唯だ引つめて云ふなり。子昂をすかうと云ふは、扇子銀子鐵子などのたぐひにて、これもと唐音なるべし。子ノ字今の唐音にては、ツウと呼なれど、スと云ふは、宋元などの頃の音にぞ有りけむ。又天子の物へ行幸の時、さきざきにて、おはします所を、行在所と云ふを、あんざいしよと訓むは、此とき別にアンの音になるにはあらず、行燈行脚など云ふアンと同じ事にて、これも昔の唐音なるべし。今の唐音は、平聲の時も、去聲の時も、インと云へり。又もろこしの國の、明の代の明を、ミンと呼も、唐音なり。今の代の清を、シンと云ふは、唐音の訛なり。清ノ字の唐音は、ツインと呼り。又明の代のとぢめに鄭成功と云ひし人を、國姓爺と稱ふ、この姓ノ字を、センと云ふも、唐音にスインと云ふを訛れるなり。さてこの國姓爺と云ふ稱は、國姓とは、當時の王の姓を云ひて、此人、明の姓を賜はれる由なり。爺は、某老某丈など云ふ、老丈のたぐひにて、たふとめる稱なり。ちかき代かの國にて、殊によくつかふ文字なり。こは筆のついでに云へり。
新字:字音の言の、昔より云ひなれたるに、常の音とことなる多し。周礼をしゆらい、檀弓をだんぐう、淮南子をゑなんじ、玉篇をごくへん、鄭玄をぢやうげん、孔頴達をくえうだつと云ふ類ひは、呉音なれば、ことも無し。越王句践を、ゑつとうこうせんと訓むは、唯だ引つめて云ふなり。子昂をすかうと云ふは、扇子銀子鉄子などのたぐひにて、これもと唐音なるべし。子ノ字今の唐音にては、ツウと呼なれど、スと云ふは、宋元などの頃の音にぞ有りけむ。又天子の物へ行幸の時、さきざきにて、おはします所を、行在所と云ふを、あんざいしよと訓むは、此とき別にアンの音になるにはあらず、行灯行脚など云ふアンと同じ事にて、これも昔の唐音なるべし。今の唐音は、平声の時も、去声の時も、インと云へり。又もろこしの国の、明の代の明を、ミンと呼も、唐音なり。今の代の清を、シンと云ふは、唐音の訛なり。清ノ字の唐音は、ツインと呼り。又明の代のとぢめに鄭成功と云ひし人を、国姓爺と称ふ、この姓ノ字を、センと云ふも、唐音にスインと云ふを訛れるなり。さてこの国姓爺と云ふ称は、国姓とは、当時の王の姓を云ひて、此人、明の姓を賜はれる由なり。爺は、某老某丈など云ふ、老丈のたぐひにて、たふとめる称なり。ちかき代かの国にて、殊によくつかふ文字なり。こは筆のついでに云へり。
書き下し
字音の言の、昔より云いなれたるに、常の音とことなる多し。周礼をしゅらい、檀弓をだんぐう、淮南子をえなんじ、玉篇をごくへん、鄭玄をじょうげん、孔頴達をくようだつと云う類いは、呉音なれば、ことも無し。越王句践を、えつとうこうせんと訓むは、ただ引きつめて云うなり。子昂をすこうと云うは、扇子・銀子・鉄子などのたぐいにて、これもと唐音なるべし。子の字今の唐音にては、ツウと呼ぶなれど、スと云うは、宋元などの頃の音にぞ有りけむ。又天子の物へ行幸の時、さきざきにて、おわします所を、行在所と云うを、あんざいしょと訓むは、この時別にアンの音になるにはあらず、行灯・行脚など云うアンと同じ事にて、これも昔の唐音なるべし。今の唐音は、平声の時も、去声の時も、インと云えり。又もろこしの国の、明の代の明を、ミンと呼ぶも、唐音なり。今の代の清を、シンと云うは、唐音の訛りなり。清の字の唐音は、ツインと呼べり。又明の代のとじめに鄭成功と云いし人を、国姓爺と称う、この姓の字を、センと云うも、唐音にスインと云うを訛れるなり。さてこの国姓爺と云う称は、国姓とは、当時の王の姓を云いて、この人、明の姓を賜われる由なり。爺は、某老・某丈など云う、老・丈のたぐいにて、尊める称なり。ちかき代かの国にて、殊によくつかう文字なり。こは筆のついでに云えり。
現代語訳
漢字音の言葉で昔から言い慣れているものに、ふつうの音と異なるものが多い。周礼を「しゅらい」、檀弓を「だんぐう」、淮南子を「えなんじ」、玉篇を「ごくへん」、鄭玄を「じょうげん」、孔穎達を「くようだつ」と言う類いは、呉音なので問題はない。越王句践を「えつとうこうせん」と読むのは、ただ詰めて言っているのである。子昂を「すこう」と言うのは、扇子・銀子・鉄子などの類いで、これはもとは唐音であろう。「子」の字は今の唐音では「ツウ」と呼ぶが、「ス」と言うのは宋・元などの頃の音であったのだろう。また天子がどこかへ行幸された時、行く先々でおいでになる所を「行在所」と言うのを「あんざいしょ」と読むのは、この時に特別に「アン」の音になるのではなく、行灯・行脚などと言う「アン」と同じことで、これも昔の唐音であろう。今の唐音では、平声の時も去声の時も「イン」と言っている。また唐土の国の明の代の「明」を「ミン」と呼ぶのも唐音である。今の代の清を「シン」と言うのは、唐音の訛りである。「清」の字の唐音は「ツイン」と呼んでいる。また明の代の終わりに鄭成功という人を「国姓爺」と称する、この「姓」の字を「セン」と言うのも、唐音で「スイン」と言うのを訛ったのである。さてこの国姓爺という呼び名は、国姓とは当時の王の姓を言い、この人が明の国姓を賜ったからだという。「爺」は、某老・某丈などと言う老・丈の類いで、尊ぶ呼び名である。近い代にあの国でとりわけよく使う文字である。これは筆のついでに言った。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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『玉勝間』九の巻 人ノ名を文字音に云ふ事人の名を、世に文字の音にて呼びならえる事、古くは、時平の大臣、多田の満仲、源の頼光、安倍の晴明などのごとき有り。やや後には、俊成卿・定家卿、家隆卿、鴨の長明など、もはら文字ごえにのみ云いならえり。琵琶ほうしの、平家物語を語るを聞くに、常にはさもあらぬ、もろもろの人の名どもも、多くは文字ごえに物すなるは、当時ことに、世の中にさかりなりし事なめり。
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『玉勝間』八の巻 音学五書と云ふふみもろこしの国に、明の代の末に、顧炎武と云いし人、音学五書と云うふみを作りて、後の世の音韻の、世々に訛りきて、切古えの音とは、たがえる事、又韻書どものひが事などを、古き書どもの韻語を、ことごとく引き出で証して、委しく論いたり。今の世のからさえずりをしも、華音など、ことごとしく云いて、いみじく尊き物に思いおる人どもに見せて、目覚させま欲しき書にぞ有ける。五書は、音論と云う三巻、詩本音と云う十巻、易音と云う三まき、唐音正と云う二十巻、古音表と云う二まき、にて、あわせて三十八巻あり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
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『玉勝間』一の巻 音便の事古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり。後の世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつ見えそめて、世々をふるままに、ようように多くなれり。そは漢字三音考の末に云える如く、おのづから定まり有りて、もろもろの音便五くさを出でず。抑この音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などを読むには、一つもまじう可きにあらざるを、後の世の物知り人、その本の語をわきまえずして、世のつねに云いなれたる音便のままに読むは、なおざりなる事なり。すべて後の世には、音便の言いといと多くして、まどいやすし。本の語をよく考えて、正しく読むべきなり。中にもンと云う音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便なりとこころうべし。さてその音便のンの下は、本の語は清音なるをも濁らるる音なれば、皆必ず濁る例なり。たとえばネモコロと云う言を、後にはネンゴロと云うが如し。ンの下のコ文字、本の語は清音なるを、上のモをンと云うにひかれて濁る、みなこの格なり。然るを世の人、その音便のときの濁りに口なれて、正しく読むときも、ネモゴロと、コをにごるはひが事なり。この例多し。心得おくべし。
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