玉勝間 / 九の巻 いまだ世にある人のことに謚を云へる誤
太平記に、村上ノ彥四郞義光が、大塔ノ宮にいつはりかはり奉りて、みづから死なむとする時の詞に、我は後醍醐ノ天皇の第二の皇子云云、と云へり。其時は、後醍醐のみかどは、いまだ世にましましし程なるに、いかでか後の御謚をば申さむ、しるせる人のひがことなり。此たぐひ、からぶみにも有り、史記の田齊ノ世家と云ふくだりに、齊國國人の歌に、嫗乎采芑、歸乎田成子、とうたへる由しるせり。成子と云ふは、田常と云ふ人の謚なるを、これも其人の、いまだ存在し程の事なり。左傳にも、此たぐひ有りしやうに覺ゆるを、そは忘れたり。
新字:太平記に、村上ノ彦四郎義光が、大塔ノ宮にいつはりかはり奉りて、みづから死なむとする時の詞に、我は後醍醐ノ天皇の第二の皇子云云、と云へり。其時は、後醍醐のみかどは、いまだ世にましましし程なるに、いかでか後の御謚をば申さむ、しるせる人のひがことなり。此たぐひ、からぶみにも有り、史記の田斉ノ世家と云ふくだりに、斉国国人の歌に、嫗乎采芑、帰乎田成子、とうたへる由しるせり。成子と云ふは、田常と云ふ人の謚なるを、これも其人の、いまだ存在し程の事なり。左伝にも、此たぐひ有りしやうに覚ゆるを、そは忘れたり。
書き下し
太平記に、村上の彦四郎義光が、大塔の宮にいつわりかわり奉りて、みずから死なむとする時の詞に、我は後醍醐の天皇の第二の皇子云云、と云えり。その時は、後醍醐のみかどは、いまだ世にましましし程なるに、いかでか後の御謚をば申さむ、しるせる人のひがことなり。この類い、からぶみにも有り、史記の田斉の世家と云うくだりに、斉国の国人の歌に、嫗か芑を采る、田成子に帰せよ、とうたえる由しるせり。成子と云うは、田常と云う人の謚なるを、これもその人の、いまだ存在せし程の事なり。左伝にも、この類い有りしように覚ゆるを、そは忘れたり。
現代語訳
『太平記』に、村上彦四郎義光が大塔宮(護良親王)の身代わりとなって、自ら死のうとする時の言葉に「我は後醍醐天皇の第二の皇子」云々と言っている。その時は、後醍醐の帝はまだ在世であったのに、どうして後の御諡号を申し上げるだろうか。書き記した人の誤りである。この類いは漢籍にもある。『史記』の田斉の世家(「田敬仲完世家」)という所に、斉の国の人々の歌に「老女が芑を摘む。田成子に帰服せよ」と歌ったと記している。成子というのは田常という人の諡なのに、これもその人がまだ生きていた頃のことである。『左伝』にもこの類いがあったように思うが、それは忘れた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『玉勝間』一の巻 東宮をたがひにゆづりてこの里に、これも宣長がおしえ子に、須賀の直見と云いしは、いときなかりし程より、唐やまとの書を好み読みて、いとよく学びて、歌をも善く詠み、物のさとりもいと賢こかりけるを、まだ四十にもならで、早くみまかりぬるは、いとあたらしきおのこになむ有りける。それが云えりしは、古今集の序の細註に、東宮を互いにゆずりてと有るは、誰れもいと心得ぬ云いざまなる。こは東宮とにぞ有りけむを、と文字とを文字とよく似たれば、見誤りて書きつたえたる者なるべし。宇治の稚郎子を指して、東宮とは申せるなりとぞ云えりし。この考えにてよく聞こえたり。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
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『玉勝間』八の巻 男の名にも某子と云へる事又敏達の御巻なる糠手子の連を、崇峻の御巻には、糠手の連と見え、舒明御巻に、中臣の連弥気と有る人を、家の系図には、御食子の大連公と見え、又皇極の御巻に、巨勢の臣徳太とある人を、孝徳の御巻には、徳陀古とも有る、これらをもて見れば、子と云う事を、はぶきても添えても云えるも有しにや。
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