玉勝間 / 九の巻 当の字のつかひざま又此を今のと云ふ事
そもそもかの今の歌はと云へるたぐひを思ふに、此歌はと云ひては、別にそこに引たる歌のことに、まがふをりなどの有れば、そを分む爲などには、今注する歌の事をば、然か云はむも、惡しき事にはあらずなん。
新字:そもそもかの今の歌はと云へるたぐひを思ふに、此歌はと云ひては、別にそこに引たる歌のことに、まがふをりなどの有れば、そを分む為などには、今注する歌の事をば、然か云はむも、悪しき事にはあらずなん。
書き下し
そもそもかの今の歌はと云えるたぐいを思うに、此歌はと云いては、別にそこに引きたる歌のことに、まがうおりなどの有れば、そを分けむ為などには、今注する歌の事をば、然か云わむも、悪しき事にはあらずなん。
現代語訳
そもそもあの「今の歌は」と言っている類いについて考えると、「この歌は」と言っては、別にそこに引用した歌のことと紛れる時などがあるので、それを区別するためなどには、いま注釈している歌のことをそのように言うのも、悪いことではない。
解説
前の段で契沖の「今の歌は」という言い回しを仏書の癖と指摘した宣長が、それを一部認め直した短い段である。注釈の中では、本題の歌のほかに参考として別の歌を引くことが多い。そのとき「この歌は」と書けば、どちらの歌を指すのか紛れてしまう。いま注釈している歌を「今の歌」と呼んで区別するのは、実用上理にかなっているというのである。出どころが仏書であることと、使い方として役に立つことは別の問題だと、宣長は分けて考えている。批判した後で、その言い方の効用にも目を向ける公平さがうかがえる。書き物の言葉を選ぶ時には、由来だけでなく、読み手に紛れなく伝わるかどうかも大切な基準になる。
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 当の字のつかひざま又此を今のと云ふ事当の字のつかいよう、皇国にては、古くより、多く此と云う意、又今と云う意に用いたり。今の世も然り。当国・当所・当時・当年などのたぐい皆、此国・此所・今時・今年と云う意なり。これ字の義にはかなわず。当の字は、其と云うにあたりて、当国・当所などは、字の意にては、其国・其所と云うこと、当時・当年などは、其時・其年と云う事なり。さる故に日本紀には、ソノと訓めるところ有るなり。もろこしにては、此と云い今と云うことに、本州・本郡・本年・本月など云う、本の字のつかいざま、皇国にて、当某と云うにあたれり。但しもろこしにて、本某と云う事も、いたく古き書には見えず、中昔よりの事なるべし。又此の寺と云う事を、漢ように、本寺と書きては、いわゆる本寺末寺の本寺にまがえば、やむことえず漢文にも、当寺と書くたぐい有るなり。さて又仏ぶみには、此と云うことを、今と云えることも多し。此経を今経、此宗を今家など云える類いなり。契沖が歌の注などに、此歌はと云うことを、今の歌はと云えるたぐい、常に多きは、仏書より出でたる詞なり。この今と云う言、仏ぶみより外には、おさおさ見及ばぬ事なり。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』十二の巻 歌に六義と云ふ事いわゆる古注に、おおよそむくさに分かれむことは、えあるまじき事になむと云えるぞ、よくあたれる論いには有りける。この一言にて、六義の論は尽きたるべし。
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『玉勝間』八の巻 今の人の歌文ひがこと多き事近き世の人のは、歌も文も、大かたはよろしと見ゆるにも、猶ひが事の多きぞかし。されど其のたがえるふしを、見知れる人はた世に無ければ、唯だかいなでに、此処かしこえんなる詞を使い、よしめきて、詠みなし書き散らしたるをば、誠に善しと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したり顔すめる、いとかたはら痛く、おこがましくさえぞ思わるる。さるにつけては、斯く云うおのが物する事も、猶いかにひが事有らむと、物よく見知れらむ人の心ぞ、恥しかりける。人のひが事の、よく見え分かるるにつけては、我はよくわきまえたれば、ひが事はせずと、思いほこれど、古えの事の心をさとり知るすじは、限り無きわざにし有れば、此外あらじとは、いとなん定め難きわざなりける。
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『玉勝間』二の巻 歌書の註を抄となづくる事昔より、歌ぶみの註を抄と云いて、その名をも多く某抄とつくる。抄の字は、註釈にはあたらざれども、もろこしよりして、仏ぶみには、その書のさまにかかわらで、記とも集とも抄とも名づけたる、つねの事なれば、歌ぶみの註を抄と云うも、もと仏書の名どもにならえる物なるべし。
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『玉勝間』一の巻 古今集の長歌の事古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。その歌に、なにしかも人をうらみむと云えること、上下にあいあづからざる事なり、この二句をのぞきて善けん。また一うたのうちに、思と云う詞九つ有りて、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思えどもと云える事さえ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思えどもと云う句は、なお今一つあり。また思いは深しと云える句、またとぢめの二句などは、ちからなく聞こえて漂よわし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有りて聞こゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらうは、いとおおけなけれど、なおえあらでなん。
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