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玉勝間 / 九の巻 当の字のつかひざま又此を今のと云ふ事

當ノ字のつかひやう、皇國にては、古くより、多く此と云ふ意、又今と云ふ意に用ひたり。今ノ世も然り。當國當所當時當年などのたぐひ皆、此國此所今時今年と云ふ意なり。これ字の義にはかなはず。當ノ字は、其と云ふにあたりて、當國當所などは、字の意にては、其國其所と云ふこと、當時當年などは、其時其年と云ふ事なり。さる故に日本紀には、ソノと訓るところ有るなり。もろこしにては、此と云ひ今と云ふことに、本州本郡本年本月など云ふ、本ノ字のつかひざま、皇國にて、當某と云ふにあたれり。但しもろこしにて、本某と云ふ事も、いたく古き書には見えず、中昔よりの事なるべし。又此ノ寺と云ふ事を、漢やうに、本寺と書ては、いはゆる本寺末寺の本寺にまがへば、やむことえず漢文にも、當寺と書たぐひ有るなり。さて又佛ぶみには、此と云ふことを、今と云へることも多し。此經を今經、此宗を今家など云へる類ひなり。契沖が歌の注などに、此歌はと云ふことを、今の歌はと云へるたぐひ、常に多きは、佛書より出たる詞なり。この今と云ふ言、佛ぶみより外には、をさをさ見及ばぬ事なり。

新字:当ノ字のつかひやう、皇国にては、古くより、多く此と云ふ意、又今と云ふ意に用ひたり。今ノ世も然り。当国当所当時当年などのたぐひ皆、此国此所今時今年と云ふ意なり。これ字の義にはかなはず。当ノ字は、其と云ふにあたりて、当国当所などは、字の意にては、其国其所と云ふこと、当時当年などは、其時其年と云ふ事なり。さる故に日本紀には、ソノと訓るところ有るなり。もろこしにては、此と云ひ今と云ふことに、本州本郡本年本月など云ふ、本ノ字のつかひざま、皇国にて、当某と云ふにあたれり。但しもろこしにて、本某と云ふ事も、いたく古き書には見えず、中昔よりの事なるべし。又此ノ寺と云ふ事を、漢やうに、本寺と書ては、いはゆる本寺末寺の本寺にまがへば、やむことえず漢文にも、当寺と書たぐひ有るなり。さて又仏ぶみには、此と云ふことを、今と云へることも多し。此経を今経、此宗を今家など云へる類ひなり。契沖が歌の注などに、此歌はと云ふことを、今の歌はと云へるたぐひ、常に多きは、仏書より出たる詞なり。この今と云ふ言、仏ぶみより外には、をさをさ見及ばぬ事なり。

書き下し

当の字のつかいよう、皇国にては、古くより、多く此と云う意、又今と云う意に用いたり。今の世も然り。当国・当所・当時・当年などのたぐい皆、此国・此所・今時・今年と云う意なり。これ字の義にはかなわず。当の字は、其と云うにあたりて、当国・当所などは、字の意にては、其国・其所と云うこと、当時・当年などは、其時・其年と云う事なり。さる故に日本紀には、ソノと訓めるところ有るなり。もろこしにては、此と云い今と云うことに、本州・本郡・本年・本月など云う、本の字のつかいざま、皇国にて、当某と云うにあたれり。但しもろこしにて、本某と云う事も、いたく古き書には見えず、中昔よりの事なるべし。又此の寺と云う事を、漢ように、本寺と書きては、いわゆる本寺末寺の本寺にまがえば、やむことえず漢文にも、当寺と書くたぐい有るなり。さて又仏ぶみには、此と云うことを、今と云えることも多し。此経を今経、此宗を今家など云える類いなり。契沖が歌の注などに、此歌はと云うことを、今の歌はと云えるたぐい、常に多きは、仏書より出でたる詞なり。この今と云う言、仏ぶみより外には、おさおさ見及ばぬ事なり。

現代語訳

「当」の字の使い方は、皇国では古くから、多く「この」という意味、また「今」という意味に用いてきた。今の世もそうである。当国・当所・当時・当年などの類いはみな、この国・この所・今時・今年という意味である。これは字の本来の意味には合わない。「当」の字は「その」と言うのにあたり、当国・当所などは、字の意味からすれば、その国・その所ということ、当時・当年などは、その時・その年ということである。そのため『日本書紀』には「ソノ」と訓んでいるところがあるのである。唐土では、「この」と言い「今」と言うことに、本州・本郡・本年・本月などと言う「本」の字の使い方が、皇国で「当何々」と言うのにあたっている。ただし唐土で「本何々」と言うことも、ごく古い書物には見えず、中古以来のことであろう。またこの寺ということを漢文風に「本寺」と書いては、いわゆる本寺・末寺の本寺と紛れるので、やむをえず漢文でも「当寺」と書く類いがあるのである。さてまた仏典には、「この」ということを「今」と言うことも多い。この経を「今経」、この宗を「今家」などと言う類いである。契沖の歌の注などで「この歌は」ということを「今の歌は」と言っている類いが常に多いのは、仏書から出た言葉である。この「今」という言い方は、仏典のほかではほとんど見かけないことである。

解説

漢字「当」の日本での使い方が、本来の字義と違っていることを論じた段である。日本では当国・当時・当年のように「この」「今」の意味で使うが、字の本義は「その」であり、『日本書紀』にもソノと訓んだ例がある。中国で同じ意味を表すのは「本」の字で、それも古い書には見えないという。さらに話は、「この」を「今」と言う仏典の言い回しに及び、契沖の注に「今の歌は」という言い方が多いのは仏書から来た癖だと指摘する。前の契沖の段と響き合う観察である。宣長は、漢字の使い方にも和と漢と仏の層が重なっていることを見分けていた。何気ない言葉遣いが、書き手の育った学問の出どころを映し出すのである。

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