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玉勝間 / 九の巻 成湯が誓の言又周の武王

もろこしの殷の湯王、夏の桀王をうたむとして、民に誓ひたる詞に、予其大賚女云云、女不從誓言、予則孥僇女、と云へるを見れば、したがはぬ者多かりしを、なつけもおどしもして、しひて己レに從がはしめたるものなり。もし實に民の心に、いみしく桀をにくみて、湯を思ひたらんには、かかる誓言は、有るべくも覺えず。又周の武王も、まことに國民の苦みをすくはむために、紂をば討ちたるならば、箕子などを立テてこそ、王にはすべき事なるに、さはせずして、おのれ其國をうばひて、王に成れるはいかに。さて箕子には、朝鮮を與へしは、もし後に己が愁をなさむかと、あやぶみて、さるはるかなる國には遠ざけやりしなり。そもそも彼のもろこしなどは、始めより、定まれる主は無くして、君臣の義も立たざる國にして、君をほろぼして、國をうばふも、常なれども、天の與へたる如くに、巧言いひなして、世ノ人をあざむきたるが、憎きなり。又さる惡しき人どもを、聖人として、もてはやすが、をかしきなり。

新字:もろこしの殷の湯王、夏の桀王をうたむとして、民に誓ひたる詞に、予其大賚女云云、女不従誓言、予則孥僇女、と云へるを見れば、したがはぬ者多かりしを、なつけもおどしもして、しひて己レに従がはしめたるものなり。もし実に民の心に、いみしく桀をにくみて、湯を思ひたらんには、かかる誓言は、有るべくも覚えず。又周の武王も、まことに国民の苦みをすくはむために、紂をば討ちたるならば、箕子などを立テてこそ、王にはすべき事なるに、さはせずして、おのれ其国をうばひて、王に成れるはいかに。さて箕子には、朝鮮を与へしは、もし後に己が愁をなさむかと、あやぶみて、さるはるかなる国には遠ざけやりしなり。そもそも彼のもろこしなどは、始めより、定まれる主は無くして、君臣の義も立たざる国にして、君をほろぼして、国をうばふも、常なれども、天の与へたる如くに、巧言いひなして、世ノ人をあざむきたるが、憎きなり。又さる悪しき人どもを、聖人として、もてはやすが、をかしきなり。

書き下し

もろこしの殷の湯王、夏の桀王をうたむとして、民に誓いたる詞に、予其れ大いに女に賚せん云云、女誓言に従わずんば、予則ち女を孥戮せん、と云えるを見れば、したがわぬ者多かりしを、なつけもおどしもして、しいて己に従がわしめたるものなり。もし実に民の心に、いみしく桀をにくみて、湯を思いたらんには、かかる誓言は、有るべくも覚えず。又周の武王も、まことに国民の苦しみをすくわむために、紂をば討ちたるならば、箕子などを立ててこそ、王にはすべき事なるに、さはせずして、おのれその国をうばいて、王に成れるはいかに。さて箕子には、朝鮮を与えしは、もし後に己が愁をなさむかと、あやぶみて、さるはるかなる国には遠ざけやりしなり。そもそも彼のもろこしなどは、始めより、定まれる主は無くして、君臣の義も立たざる国にして、君をほろぼして、国をうばうも、常なれども、天の与えたるごとくに、巧言いいなして、世の人をあざむきたるが、憎きなり。又さる悪しき人どもを、聖人として、もてはやすが、おかしきなり。

現代語訳

唐土の殷の湯王が、夏の桀王を討とうとして民に誓った言葉に、「私は大いにお前たちに恩賞を与えよう」云々、「お前たちが誓いの言葉に従わないならば、私はお前たちを妻子もろとも殺すであろう」と言っているのを見ると、従わない者が多かったのを、手なずけもし脅しもして、無理に自分に従わせたのである。もし本当に民の心に、ひどく桀を憎んで湯を慕っていたのなら、このような誓いの言葉はあるはずがないと思われる。また周の武王も、本当に国の民の苦しみを救うために紂を討ったのならば、箕子などを立てて王にすべきであったのに、そうはせずに自分がその国を奪って王になったのはどういうことか。さて箕子に朝鮮を与えたのは、もしや後に自分の禍いとなるのではないかと危ぶんで、そのような遠い国へ遠ざけたのである。そもそもあの唐土などは、初めから定まった君主がなく、君臣の義も立たない国であって、君を滅ぼして国を奪うのも常のことであるが、天が与えたかのように巧みな言葉で言いつくろって世の人を欺いたのが憎いのである。またそのような悪い人々を聖人としてもてはやすのが、おかしいのである。

解説

儒教が聖人と仰ぐ殷の湯王と周の武王を、宣長が厳しく批判した段である。『書経』の「湯誓」には、従えば恩賞を与え、従わなければ妻子もろとも殺すという湯王の言葉がある。宣長は、民が本当に湯王を慕っていたなら脅しは要らなかったはずだと読む。武王も、民を救うためと言いながら、自ら王となり、有力な箕子を遠い朝鮮へ遠ざけた。中国は定まった君主がなく、君を倒して国を奪うのが常の国であり、それを天命と言い繕って人を欺いたのが憎い、というのである。易姓革命を正当化する儒教の論理への攻撃は、宣長の漢意批判の中心であり、万世一系の皇統を尊ぶ考えと表裏をなしている。

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