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玉勝間 / 九の巻 契沖が歌を解けるやう

歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云ひざまによりて、意も勢ひも、いたくたがふ事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも惡しくも、云へる事のすぢ、よく通りて、聞えやすし。然るにをりをり、くだくだしき解ざまの交れるは、いかにぞや。たとへば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹とづべき物には有らざるによりて、しばしと云へる詞、よくかなへり、と云へる類ひなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思へる物にはあらす。然るを斯くさまに、こまかに意を添へて解けるたぐひは、思ふに、佛ぶみの注釋どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釋と云ふ物は、深くせむとて、えも云はずくだくだしき意を加へて、こちたく解きなせる物ぞかし。

新字:歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云ひざまによりて、意も勢ひも、いたくたがふ事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云へる事のすぢ、よく通りて、聞えやすし。然るにをりをり、くだくだしき解ざまの交れるは、いかにぞや。たとへば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹とづべき物には有らざるによりて、しばしと云へる詞、よくかなへり、と云へる類ひなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思へる物にはあらす。然るを斯くさまに、こまかに意を添へて解けるたぐひは、思ふに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云ふ物は、深くせむとて、えも云はずくだくだしき意を加へて、こちたく解きなせる物ぞかし。

書き下し

歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。

現代語訳

歌の注釈は難しいもので、わずかな言い方の違いによって、意味も勢いもひどく違ってしまうことが多いが、契沖は歌を解くのが上手で、よくも悪くも、言っていることの筋がよく通っていて、わかりやすい。ところが時々、くどくどしい解き方が交じっているのはどうしたことか。たとえば遍昭僧正の「天つ風」の歌の注に、「もともと風も雲も浮いているものなので、長く吹き閉ざしておけるものではないから、『しばし』という言葉がよく合っている」と言っている類いである。およそあの頃などの歌は、詠み手の心には、そんなことまで思っていたものではない。それなのにこのように、細かく意味を付け加えて解いた類いは、思うに、仏典の注釈を見慣れた癖であろう。およそ仏典の注釈というものは、深くしようとして、何とも言えずくどくどしい意味を加えて、仰々しく解きなすものである。

解説

宣長が深く敬った先学契沖の、歌の注釈の癖を指摘した段である。契沖は万葉集の研究で古学の道を開いた僧で、宣長は若い頃その著作に出会って学問の目を開かれた。宣長は契沖の注を、筋が通りわかりやすいと認めたうえで、時にくどい解釈が交じると言う。遍昭の「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」の注で、風も雲も浮いたものだから「しばし」が合うなどと説くのは、詠み手が思ってもいないことだというのである。宣長はその原因を、僧であった契沖が仏典の注釈に慣れていたことに求める。敬う人の学問にも遠慮なく癖を見出し、その由来まで考える姿勢がここにある。

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