玉勝間 / 七の巻 契沖ほうしの墓のいしぶみ
僧契沖沒、實元祿十四年矣、沒即塔于圓珠庵、庵在大坂東郊、距今四十三年、塋域荒蕪、款字漫剝、庵主源光憂之、將修焉、乃謀諸江友俊、素嗜爲和歌學學焉、議便能合、遂欲別造碑、而記其顯末、以列之家上、乃俾余文之、余以弗識沖、且儒釋殊塗也辭焉、俊曰、沖雖則繼流、善和歌、及治萬葉集、而有功于訓詁者也、水戶義公之命詞臣、爲萬葉集纂註也、介而請沖、固辭不就、於是乎撰代匠記以獻之、總釋副焉、則公嘉其善解古言、善釋古歌、仍餽白金千兩、絹三十匹、以展謝之、沖即散膽貧乏、修塔廟、一錢尺帛不以隨身、公又閱古今餘材抄、至柿本大夫赤石和歌解、大服其卓見、乃復與書、强起之、辭曰、林壑之性、不〓拜起、終不就、所著漫险集二十卷、下河邊長流子序之、厚顏抄、改觀抄、勝地吐懷篇、各三卷、勢語臆斷四卷、源注拾遺、名所補翼、各八卷、類字名所集七卷、和字正濫五卷、河社二卷、代匠記二十卷、總釋二卷、古今餘材抄十卷、沖爲人也、寛厚長者、謙恭愛人、强識博覽、旁通經史、嘗爲人說萬葉集、引證確實、雄辯如注。
新字:僧契沖没、実元禄十四年矣、没即塔于円珠庵、庵在大坂東郊、距今四十三年、塋域荒蕪、款字漫剥、庵主源光憂之、将修焉、乃謀諸江友俊、素嗜為和歌学学焉、議便能合、遂欲別造碑、而記其顕末、以列之家上、乃俾余文之、余以弗識沖、且儒釈殊塗也辞焉、俊曰、沖雖則継流、善和歌、及治万葉集、而有功于訓詁者也、水戸義公之命詞臣、為万葉集纂註也、介而請沖、固辞不就、於是乎撰代匠記以献之、総釈副焉、則公嘉其善解古言、善釈古歌、仍餽白金千両、絹三十匹、以展謝之、沖即散胆貧乏、修塔廟、一銭尺帛不以随身、公又閲古今余材抄、至柿本大夫赤石和歌解、大服其卓見、乃復与書、強起之、辞曰、林壑之性、不〓拝起、終不就、所著漫险集二十巻、下河辺長流子序之、厚顔抄、改観抄、勝地吐懐篇、各三巻、勢語臆断四巻、源注拾遺、名所補翼、各八巻、類字名所集七巻、和字正濫五巻、河社二巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻、沖為人也、寛厚長者、謙恭愛人、強識博覧、旁通経史、嘗為人説万葉集、引証確実、雄弁如注。
書き下し
僧契沖没す、実に元禄十四年なり、没して即ち円珠庵に塔す、庵は大坂の東郊に在り、今を距つること四十三年、塋域荒蕪し、款字漫剝す、庵主源光之を憂い、将に修めんとす、乃ち諸を江友俊に謀る、素より和歌の学を為すことを嗜む、議便ち能く合い、遂に別に碑を造りて、その顛末を記し、以て之を冢上に列ねんと欲し、乃ち余をして之に文せしむ、余沖を識らず、且つ儒釈は塗を殊にするを以て辞す、俊曰く、沖は則ち緇流なりと雖も、和歌を善くし、及び万葉集を治めて、訓詁に功有る者なり、水戸義公の詞臣に命じて、万葉集の纂註を為すや、介して沖に請う、固辞して就かず、ここに於て代匠記を撰びて以て之を献じ、総釈之に副う、則ち公その善く古言を解き、善く古歌を釈するを嘉して、仍りて白金千両、絹三十匹を餽り、以て之に謝を展ぶ、沖即ち貧乏に散贍し、塔廟を修め、一銭尺帛も以て身に随えず、公また古今余材抄を閲して、柿本大夫の明石の和歌の解に至り、大いにその卓見に服し、乃ちまた書を与えて、強いて之を起たしむ、辞して曰く、林壑の性、拝起に堪えずと、終に就かず、著す所の漫吟集二十巻、下河辺長流子之に序す、厚顔抄、改観抄、勝地吐懐篇、各三巻、勢語臆断四巻、源注拾遺、名所補翼、各八巻、類字名所集七巻、和字正濫五巻、河社二巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻、沖の人と為りや、寛厚長者、謙恭にして人を愛し、強識博覧、旁ら経史に通ず、嘗て人の為に万葉集を説くに、引証確実、雄弁注ぐがごとし。
現代語訳
僧契沖が没したのは、元禄十四年のことである。没するとすぐに円珠庵に墓塔を建てた。庵は大坂の東の郊外にある。今から四十三年前のことで、墓域は荒れ、刻んだ文字はすり減って剥げている。庵主の源光がこれを憂えて、修理しようとし、江友俊に相談した。友俊はもとから和歌の学問をたしなむ人で、話はすぐにまとまり、ついに別に碑を造ってその経緯を記し、墓の上に並べようと考え、私にその文を書かせた。私は契沖を知らず、しかも儒者と僧とは道が異なるので辞退した。友俊が言うには、「契沖は僧ではあるが、和歌にすぐれ、また万葉集を研究して、語句の解釈に功績のある人である。水戸義公(徳川光圀)が家臣の学者に命じて万葉集の注釈を作らせたとき、人を介して契沖に依頼したが、固く辞退して引き受けなかった。そこで代匠記を著して献上し、総釈をこれに添えた。義公はその古語をよく解き、古歌をよく解釈していることを賞して、銀千両と絹三十匹を贈って謝意を表した。契沖はすぐにそれを貧しい人々に分け与え、塔や廟を修理し、一銭一尺の布も身に付けなかった。義公はまた古今余材抄を見て、柿本人麻呂の明石の歌の解釈に至り、その卓見に大いに感服して、また手紙を送って強いて招こうとした。契沖は『山林に住む性分で、出仕の礼に堪えない』と辞退して、ついに応じなかった。著作は漫吟集二十巻(下河辺長流が序を書いた)、厚顔抄・改観抄・勝地吐懐編各三巻、勢語臆断四巻、源注拾遺・名所補翼各八巻、類字名所集七巻、和字正濫鈔五巻、河社二巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻である。契沖の人柄は、寛大で温厚な長者であり、謙虚でうやうやしく人を愛し、記憶力が強く博識で、かたわら儒教の経書や史書にも通じていた。かつて人のために万葉集を講じたときには、引く証拠が確かで、雄弁は水を注ぐようであった」。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 契沖ほうしの墓のいしぶみ聴く者悚然として、以て古の秘書の流亜と為す、幼き時長流子その篇什を誦して、心に逆らう莫く、乃ち請いて方外の交わりを為し、相与に唱酬して、以て一鍾期を得たりと為す、その浮屠の法を修むるは、即ち具に水戸の詞臣安藤為明の撰する所の行状、及び僧義剛の録する所の逸事状に載す、これ沖の梗概のみ、余之を聞きて嘆じて曰く、これ世僧の撰に異なり、それ豈に浮屠の故を以て之を鄙しむべけんや、乃ち行状を取りて之を読む、沖の姓は下川氏、諱は空心、祖考の諱は元宜、肥後守加藤清正に仕う、考の諱は元全、尼崎城主青山幸利に仕う、間氏を娶りて沖を生む、五歳にして、能く定家の輯むる所の和歌百首を誦す、七歳、疾に嬰りて幾ど死せんとす、乃ち父母に懇いて僧と為る、時に年十有三なり、性恬澹にして静を愛し、巨刹に主たるを欲せず、晩に妙法寺に住持す、蓋し母氏の居に邇きが為なり、母氏天年を終え、乃ち退きて円珠庵に居る、没年六十二、臘五十と云う、寛保三年癸亥孟冬、大坂の五井純禎撰す。この円珠庵と云うは、大坂の高津のうち、餌指町と云う所にて、このほうしの墓は、その庵のしめの内、竹村のかたわらに在りて、まえにこの碑は立てりとぞ。おのれさいつ頃大坂にゆきて、この高津のわたり物せしおり、いかで立ちよりて、この墓もおがまばやと思いしを、日くれかたになりて、宿れるところも、程遠かりければ、道いそがれて、え物せざりきかし。このいしぶみの詞は、人のうつしてもたりけるを、また写せるなり。
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『玉勝間』四の巻 契沖ほうしのすめる庵契沖ほうしの住めりし、円珠庵と云う庵は、大坂の高津のあたり、えさし町と云う所にて、今も小寺にてあり。かのほうしこの庵にてみまかりて、墓もそこにあり。寛保の頃、五井純禎といえる儒者の書きたる碑文もたてり。そもそもこの庵は、もと和泉の国和泉の郡池田の郷万町村の、伏屋の某の家地の内、幣垣園と云うに在りて、そこに住みたりしを、難波には後に移して住めるなりとぞ。さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみ詠みて、みづから書きたりし歌など、多く持ち伝えて、今も残れるなり。
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、ただ近き世の歌ぶみをのみ学びて、万葉をまなぶ事無く、また神学者と云う物も、ただ漢ざまの理をのみさだして、古のまことのこころを得むことを思わねば、万葉をまなぶ事無くて、すべて万葉は、歌まなびにも、道の学びにも、必ずまずまなばでかなわぬ書なる事を、知れる人無かりき。されば、契沖ほうし、むねとこの集を明らめて、古の意をもかつがつうかがいそめて、はしばし云いおきつれども、歌人も神学者も、このしるべによるべき事を知れる人無かりしかば、おのが若くて、京に在りし頃などまでは、代匠記と云う物の有る事をだに知れる人も、おさおさ無かりければ、その書世にまれにして、いといと得がたく、かの人の書は、百人一首の改観抄だに、得がたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人に借りて見て、買わばやと思いて、本屋をたずねたりしに、無かりき。板本なるにいかなれば無きぞと問いしかば、ようずる人無き故に、すり出ださずとぞ云えりける。さてとかくして、からくしてぞ得たりける。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云いし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、この人のあらわしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、その外もつぎつぎに、もとめ出でて見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけじめをも、ようようにわきまえさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思えるむねは、大かた心にかなわず、その歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、ただ世の人なみに、ここかしこの会などにも出でまじらいつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなわざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有りける。そはさるべき理りあり、別に云いてん。さて後、国にかえりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出でたりとて冠辞考と云う物を見せたるにぞ、縣居の大人の御名をも、始めて知りける。
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『玉勝間』十一の巻 後の世ははづかしきものなる事安藤の為章が千年山集という物に、契沖の万葉の注釈をほめて、かの顕昭仙覚がともがらを、この大とこになぞらえば、あたかも駑駘にひとしと云うべしと云える、誠にさる事なりかし。そのかみ顕昭などの説に比べては、かの契沖の釈は、加うべきふし無く、事つきたりとぞ、誰もおぼえけむを、今また吾〓県居の大人にくらべてみれば、契沖のともがらもまた、駑駘にひとしとぞ云うべかりける。何事もつぎつぎに後の世は、いと恥ずかしきものにこそ有りけれ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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