玉勝間 / 二の巻 おのが物まなびの有しやう
かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまり事とほく、あやしきやうに覺えて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやう有るべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやと覺ゆるふしぶしも出できければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆる事多くなりて、見るたびに信ずる心の出來つつ、つひに古。ぶりのこころことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が萬葉の說は、猶いまだしき事のみぞ多かりける。おのが歌まなびの有しやう、大かた斯くの如くなりき。
新字:かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまり事とほく、あやしきやうに覚えて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやう有るべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやと覚ゆるふしぶしも出できければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆる事多くなりて、見るたびに信ずる心の出来つつ、つひに古。ぶりのこころことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、猶いまだしき事のみぞ多かりける。おのが歌まなびの有しやう、大かた斯くの如くなりき。
書き下し
かくてそのふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思いもかけぬ事のみにして、あまり事とおく、あやしきように覚えて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるよう有るべしと思いて、立ちかえり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやと覚ゆるふしぶしも出で来ければ、また立ちかえり見るに、いよいよげにとおぼゆる事多くなりて、見るたびに信ずる心の出で来つつ、つひに古ぶりのこころことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に思いくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、猶いまだしき事のみぞ多かりける。おのが歌まなびの有りしよう、大かた斯くの如くなりき。
現代語訳
こうしてその書を、はじめにひととおり見たときには、まったく思いもかけないことばかりで、あまりにかけ離れていて怪しいように思われ、まったく信じる気持ちはなかったが、やはり何かわけがあるのだろうと思って、立ち返ってもう一度見ると、まれには、なるほどそうかと思われる箇所も出てきたので、また立ち返って見ると、いよいよなるほどと思われることが多くなって、見るたびに信じる心が生まれ、ついに古風の心と言葉が本当にそうであることを悟った。こうして後に思い比べてみると、あの契沖の万葉集の説は、まだ至らないことばかりが多かったのである。私の歌の学びのありさまは、だいたいこのようであった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云いし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、この人のあらわしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、その外もつぎつぎに、もとめ出でて見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけじめをも、ようようにわきまえさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思えるむねは、大かた心にかなわず、その歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、ただ世の人なみに、ここかしこの会などにも出でまじらいつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなわざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有りける。そはさるべき理りあり、別に云いてん。さて後、国にかえりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出でたりとて冠辞考と云う物を見せたるにぞ、縣居の大人の御名をも、始めて知りける。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさてまた道の学びはまず初めより、神書と云うすじの物、ふるき近き、これやかれやと読みつるを、はたちばかりの程より、わきて心ざし有りしかど、とりたててわざと学ぶ事は無かりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こころざしはすすみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらえて、皇国の古の意をおもうに、世に神道者と云う者の説おもむきは、皆いたくたがえりと、早くさとりぬれば、師と頼むべき人も無かりしほどに、われいかで古のまことのむねを、考え出でむ、と思うこころざし深かりしにあわせて、かの冠辞考を得て、かえすがえす読みあじわうほどに、いよいよ心ざし深くなりつつ、この大人をしたう心、日にそえてせちなりしに、年このうし、田安の殿の仰せ事をうけ給わり給いて、このいせの国より、大和山城など、ここかしこと尋ねめぐられし事の有りしおり、この松坂の里にも、二日三日とどまり給えりしを、さることつゆ知らで、後に聞きて、いみしく口惜しかりしを、かえるさまにも、また一夜やどり給えるを、うかがい待ちて、いといとうれしく、急ぎやどりにもうでて、はじめて見え奉りたりき。さてつひに名簿を奉りて、教えをうけ給わる事には成りたりきかし。
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、ただ近き世の歌ぶみをのみ学びて、万葉をまなぶ事無く、また神学者と云う物も、ただ漢ざまの理をのみさだして、古のまことのこころを得むことを思わねば、万葉をまなぶ事無くて、すべて万葉は、歌まなびにも、道の学びにも、必ずまずまなばでかなわぬ書なる事を、知れる人無かりき。されば、契沖ほうし、むねとこの集を明らめて、古の意をもかつがつうかがいそめて、はしばし云いおきつれども、歌人も神学者も、このしるべによるべき事を知れる人無かりしかば、おのが若くて、京に在りし頃などまでは、代匠記と云う物の有る事をだに知れる人も、おさおさ無かりければ、その書世にまれにして、いといと得がたく、かの人の書は、百人一首の改観抄だに、得がたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人に借りて見て、買わばやと思いて、本屋をたずねたりしに、無かりき。板本なるにいかなれば無きぞと問いしかば、ようずる人無き故に、すり出ださずとぞ云えりける。さてとかくして、からくしてぞ得たりける。
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『玉勝間』二の巻 あがたゐのうしの御さとし言このむねを忘れず、心にしめて、まずひききところよりよくかため置きてこそ、高き所にはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみを得とかざるは、もはらこのゆえぞ、ゆめしなを越えて、まだきに高き所をな望みそと、いとねもころになん、いましめさとし給いたりし。この御さとしの言の、いとたっとくおぼえけるままに、いよいよ万葉集に心をそめて、深く考え、くりかえし問いただして、古のこころ詞をさとりえて見れば、まことに世の物知り人と云う者の、神の御ふみ説ける趣は、皆あらぬから意のみにして、さらにまことの意はえ得ぬものになむ有りける。
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『玉勝間』一の巻 あがたゐのうしは古、学のおやなる事からごころをきよくはなれて、もはら古のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが県居の大人よりぞはじまりける。この大人の学の、いまだおこらざりしほどの世の学問は、歌もただ古今集よりこなたにのみとどまりて、万葉などは、ただいと物どおく、心も及ばぬ物として、さらにその歌の善き悪しきを思い、古き近きをわきまえ、またその詞を、今のおのが物としてつかう事などは、すべて思いも及ばざりし事なるを、今はその古言をおのがものとして、万葉ぶりの歌をも詠み出で、古ぶりの文などをさえ、書きうることとなれるは、もはらこのうしのおしえのいさおにぞ有りける。今の人は、ただおのれみづから得たるごと思うめれど、みなこの大人の御蔭によらずと云うこと無し。また古事記・書紀などの、古典をうかがうにも、漢意にまどわされず、まづもはら古言を明らめ、古意によるべきことを、人みな知れるも、このうしの万葉のおしえのみたまにぞ有りける。そもそも斯かるたふとき道を、開らき初められたるいそしみは、世にいみしきものなりかし。
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『玉勝間』二の巻 あがたゐのうしの御さとし言宣長三十あまりなりしほど、縣居の大人の教えをうけ給わりそめし頃より、古事記の注釈を物せむのこころざし有りて、その事大人にもきこえけるに、さとし給えりしようは、われももとより、神の御典をとかむと思う心ざし有るを、そはまずからごころを清くはなれて、古のまことの意をたずねえずは有るべからず、然るにその古のこころを得むことは、古言を得たるうえならではあたわず、古言を得むことは、万葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまずもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老いて、残りのよわい、今いくばくも有らざれば、神の御ふみを解くまでに至る事えざるを、いましは年さかりにて、行くさき長ければ、今より怠る事無く、いそしみ学びなば、その心ざしとぐること有るべし。ただし世の中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきき所を経ずて、まだきに高き所にのぼらんとする程に、ひきき所をだにうる事あたわず、まして高き所はうべきよう無ければ、皆ひがごとのみすめり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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