うひ山ぶみ / 注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり
有リ、世にこれを分て哥學者といへり、哥學といへば、哥よむ事をまなぶことなれども、しばらく件のすぢ三四を分て然いふ也、いにしへに在リては、顯昭法橋など此すぢなるが、其說は、ゆきたらはぬ事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以來の人々の說は、かの近世やうの、おろかなる癖おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず、然るに近く契冲ほふし出てより、此學大キにひらけそめて、哥書のとりさばきは、よろしくなれり、さて哥をよむ事をのみわざとすると、此哥學の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顯昭をはじめとして、今の世にいたりても、哥學のかたよろしき人は、大抵いづれも、哥よむかたつたなくて、哥は、哥學のなき人に上手がおほきもの也、こは專一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて哥學のよき人のよめる哥は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也也此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、
新字:有リ、世にこれを分て歌学者といへり、歌学といへば、歌よむ事をまなぶことなれども、しばらく件のすぢ三四を分て然いふ也、いにしへに在リては、顕昭法橋など此すぢなるが、其説は、ゆきたらはぬ事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以来の人々の説は、かの近世やうの、おろかなる癖おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず、然るに近く契沖ほふし出てより、此学大キにひらけそめて、歌書のとりさばきは、よろしくなれり、さて歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顕昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也也此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、
書き下し
有リ、世にこれを分て歌学者といへり、歌学といへば、歌よむ事をまなぶことなれども、しばらく件のすぢを分て然いふ也、いにしへに在リては、顯昭法橋など此すぢなるが、其説は、ゆきたらはぬ事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以来の人々の説は、かの近世やうの、おろかなる癖おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず、然るに近く契冲ほふし出てより、此学大キにひらけそめて、歌書のとりさばきは、よろしくなれり、さて歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顯昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、
現代語訳
がある。世ではこれを分けて歌学者と言っている。歌学といえば、歌を詠む事を学ぶことであるが、しばらくこの筋を分けてそう言うのである。古においては顕昭法橋などがこの筋であるが、その説は行き届かない事が多いけれども、時代が古いために用いるべき事も少なくないのに、近世三百年以来の人々の説は、あの近世ふうの愚かな癖が多いうえに、すべて幼稚なことばかりなので、言うにも足りない。ところが近く契沖法師が出てから、この学が大いに開け始めて、歌書の取り扱いは良くなった。さて、歌を詠む事だけを業とするのと、この歌学の方を主とするのと、二様あるうちで、あの顕昭をはじめとして今の世に至っても、歌学の方の良い人は、大抵いずれも歌を詠む方が拙くて、歌は歌学のない人に上手が多いものである。これは専一にするかしないかによって、そういう道理もあるのだろうか。だからといって、歌学の良い人が詠んだ歌は皆必ず悪いものと決めて心得るのは誤りである。この二つの筋の心ばえをよく心得わきまえていれば、
解説
この章句が説くこと
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、歌学のかたに深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功をつひやすこともおほきぞかし、物語ぶみどもをもつねに見るべし、此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもらしつ、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物学びする人々のやうを見渡すに、主と道を学ぶ輩は、上にいへるごとくにて、おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、
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うひ山ぶみ・第三段又の歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふりよしやあしやをわきまふることあたはず、さやうにていつまでもたゞ、宗匠にのみゆだねもたれてあらんは、いふかひなきわざならずや、すべて近世風の歌人のごとく、何事も愚につたなき学びかたにては、生涯よき歌は出来るものにあらずと知べし、さて又はじめにいへる如く、歌をよむのみにあらず、ふるき集共をはじめて、歌書に見えたる万の事を、解キ明らむる学。
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うひ山ぶみ・注[ム]みづからも古風の歌をまなびてよむべしたててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出来たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあそぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也、さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし、それにつきては、道のために学ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、
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うひ山ぶみ・注[ノ]又後世風をもすてずして宣長もはら古学によりて、人にもこれを教へながら、みづからよむところの歌、古風のみにあらずして、後世風をも、おほくよむことを、心得ずと難ずる人多けれども、わが思ひとれるところは、上の件のごとくなる故に、後世風をも、すてずしてよむ也、其中に古風なるは数すくなくして、返て後世風なるが多きは、古風をよむべき事すくなく、後世風をよむ事おほきが故也、すべていにしへは、事すくなかりしを、後世になりゆくまにまに、万の事しげくなるとおなじ、さて吾は、古風後世風ならべよむうちに、古と後とをば、清くこれを分ちて、たがひに混雑なきやうにと、深く心がくる也、さて又初学の輩、わがをしへにしたがひて、古風後世風ともによまんとせんに、まづいづれを先キにすべきぞといふに、万の事、本をまづよくして後に、末に及ぶべきは、勿論のことなれども、又末よりさかのぼりて、本にいたるがよき事もある物にて、よく思ふに、歌も、まず後世風より入て、そを大抵得て後に、古風にかゝりてよき子細もあり、その子細を一ツ二ツいはば、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり和歌に師匠なしとのたまへるにあらずや、さて又世々の先達の立チおかれたる、くさぐさの法度掟の中には、かならず守るべき事も多く、又中にはいとつたなくして、必ズかゝはるまじきも多きことなるに、ひたぶるに固くこれを守るによりて、返て歌のさまわろくなれることも、近世はおほし、すべて此道の掟は、よきとあしきとをえらびて、守るべき也、ひたすらになづむべきにはあらず、又古人の歌は、みな勝れたる物のごとくこゝろえ、たゞ及ばぬ事とのみ思ひて、そのよしあしを考へ見んともせざるは、いと愚なること也、いにしへの歌といへども、あしきことも多く、歌仙といへども、ことごとに勝れたる物にもあらざれば、たとひ人まろ貫之の歌なりとも、実によき歟あしき歟を、考へ見て、及ばぬまでも、いろいろと評論をつけて見るべき也、すべて歌の善悪を見分る稽古、これに過たる事なし、大に益あること也、然るに近世の歌人のごとく、及ばぬ事とのみ心得居ては、すべて歌の善悪を見分べき眼の、明らかになるよしなくして、みづからの歌も、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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