玉勝間 / 九の巻 かざらき山紅葉の洞
玉葉集釋敎ノ部に、「花衣かざらき山に色かへてもみぢのほらの月をながめよ、此歌は、素意法師、いまだ出家し侍らざりけるとき、粉河の觀音にまうでて、發心して、やがてこもり侍て、いづれの所にてか出家し、いづくにてか、佛法修行して、往生をとげ侍るべきと、祈り申けるに、內陣より、斯くしめし給ひけるとなんと有リ。かざらき山は、卽ち粉川寺の山にて、風猛山と書り。玉葉集今の本にかささぎ山と有るは、誤りなり。粉川寺の村を、風市村と云ふ。風ノ森と云ふも、南に有、風市ノ森とも云へり。紅葉の洞は、大和の多武ノ峰に、錦端洞とて有る、是れなり。されば右の歌は、卽チ粉川にてかしらおろし、多武ノ峰にておこなへとの意なり。そもそも此素意法師は、紀伊ノ守重經と云ひし人にて、康平七年六月、粉川寺にて出家し、名を素意と改め、大和にのぼりて、多武ノ峰に十餘年おこなひて、其後和泉ノ國泉南ノ郡松村ノ郷に、寂靜院と云ふ寺を建てて、住けるに、かの多武ノ峰の錦端洞の秋の色の、忘れがたくおぼえければ、庭に關伽井を掘り、かたはらにかへでの木を植ゑて、丹葉井となづけけるとぞ。嘉保元年十月十五日、そこにてみまかれる由、粉川寺の緣起に見えたり。紅葉の洞は、逍遙院殿の、多武ノ峰奉納の御歌にも詠み給へり、と同じふみに云へり。
新字:玉葉集釈教ノ部に、「花衣かざらき山に色かへてもみぢのほらの月をながめよ、此歌は、素意法師、いまだ出家し侍らざりけるとき、粉河の観音にまうでて、発心して、やがてこもり侍て、いづれの所にてか出家し、いづくにてか、仏法修行して、往生をとげ侍るべきと、祈り申けるに、内陣より、斯くしめし給ひけるとなんと有リ。かざらき山は、即ち粉川寺の山にて、風猛山と書り。玉葉集今の本にかささぎ山と有るは、誤りなり。粉川寺の村を、風市村と云ふ。風ノ森と云ふも、南に有、風市ノ森とも云へり。紅葉の洞は、大和の多武ノ峰に、錦端洞とて有る、是れなり。されば右の歌は、即チ粉川にてかしらおろし、多武ノ峰にておこなへとの意なり。そもそも此素意法師は、紀伊ノ守重経と云ひし人にて、康平七年六月、粉川寺にて出家し、名を素意と改め、大和にのぼりて、多武ノ峰に十余年おこなひて、其後和泉ノ国泉南ノ郡松村ノ郷に、寂静院と云ふ寺を建てて、住けるに、かの多武ノ峰の錦端洞の秋の色の、忘れがたくおぼえければ、庭に関伽井を掘り、かたはらにかへでの木を植ゑて、丹葉井となづけけるとぞ。嘉保元年十月十五日、そこにてみまかれる由、粉川寺の縁起に見えたり。紅葉の洞は、逍遥院殿の、多武ノ峰奉納の御歌にも詠み給へり、と同じふみに云へり。
書き下し
玉葉集釈教の部に、花衣かざらき山に色かえてもみじのほらの月をながめよ、この歌は、素意法師、いまだ出家し侍らざりけるとき、粉河の観音にもうでて、発心して、やがてこもり侍りて、いづれの所にてか出家し、いづくにてか、仏法修行して、往生をとげ侍るべきと、祈り申しけるに、内陣より、かくしめし給いけるとなんと有り。かざらき山は、即ち粉川寺の山にて、風猛山と書けり。玉葉集今の本にかささぎ山と有るは、誤りなり。粉川寺の村を、風市村と云う。風の森と云うも、南に有り、風市の森とも云えり。紅葉の洞は、大和の多武の峰に、錦端洞とて有る、これなり。されば右の歌は、即ち粉川にてかしらおろし、多武の峰にておこなえとの意なり。そもそもこの素意法師は、紀伊の守重経と云いし人にて、康平七年六月、粉川寺にて出家し、名を素意と改め、大和にのぼりて、多武の峰に十余年おこないて、その後和泉の国泉南の郡松村の郷に、寂静院と云う寺を建てて、住みけるに、かの多武の峰の錦端洞の秋の色の、忘れがたくおぼえければ、庭に閼伽井を掘り、かたわらにかえでの木を植えて、丹葉井となづけけるとぞ。嘉保元年十月十五日、そこにてみまかれる由、粉川寺の縁起に見えたり。紅葉の洞は、逍遥院殿の、多武の峰奉納の御歌にも詠み給えり、と同じふみに云えり。
現代語訳
『玉葉集』釈教の部に、「華やかな俗世の衣を、かざらき山で墨染めの色に替えて、紅葉の洞の月を眺めよ」という歌がある。この歌は、素意法師がまだ出家していなかった時、粉河の観音に参詣して発心し、そのまま籠もって、どこで出家し、どこで仏法を修行して往生を遂げるべきでしょうかと祈り申したところ、内陣からこのようにお示しになったということだ、と詞書にある。かざらき山は粉河寺の山のことで、「風猛山」と書いている。今の『玉葉集』の本に「かささぎ山」とあるのは誤りである。粉河寺のある村を風市村と言う。風の森というのも南にあり、風市の森とも言う。紅葉の洞は、大和の多武峰に錦端洞というのがある、これである。だから右の歌は、粉河で髪を下ろし、多武峰で修行せよという意味である。そもそもこの素意法師は紀伊守重経という人で、康平七年(1064)六月に粉河寺で出家し、名を素意と改め、大和に上って多武峰で十余年修行し、その後、和泉国泉南郡松村郷に寂静院という寺を建てて住んだが、あの多武峰の錦端洞の秋の色が忘れがたく思われたので、庭に閼伽井(仏に供える水の井戸)を掘り、そばに楓の木を植えて「丹葉井」と名づけたという。嘉保元年(1094)十月十五日にそこで亡くなったことが、粉河寺の縁起に見えている。紅葉の洞は、逍遥院殿(三条西実隆)が多武峰に奉納した御歌にも詠んでおられる、と同じ書に言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』一の巻 立田川古今集秋下に、神なびの山を過ぎて、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるを詠める、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる。この神なび山は、山城の国乙訓の郡にて、同集別の部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、と有ると同じ所なり。さて源の重行集に、山崎川を立田川と云うを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出でしより後くやしきは船路なりけり、と有り。然れば立田川と云うも、山崎のあなた、津の国島上の郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道なり。大和の国の立田とは別なり。然るを、神なび山と云うも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和の国のとのみ思えり。契沖も然か心得て、神なび山は高市の郡、立田は平群の郡にて遥かにへだたれれば、その山の紅葉の、立田川に流るべきことわり無しと云いて疑いたり。されど詞書に、歌ぬしのみづから、その山を越え、その川を渡りて詠めると有れば、誤りとは云いがたし。然るを吾師は、もとよりかの歌をひがこととして、詞書をさえ、撰者の作れるがごとく云われたるは、云い過ごしなりけり。
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『玉勝間』二の巻 神祇の歌風雅集の神祇の部に、「もとよりもちりにまじわる神なれば月のさわりも何かくるしき、と云う歌有りて、これは和泉式部熊野にもうでたりけるに、さわりにて、奉幣かなわざりけるに、「晴れやらぬ身のうき雲のたな引きて月のさわりとなるぞかなしき、と詠みてねたりける夜の夢に、告げさせ給いけるとなんとあり。これいたく道の意にかなわず、仏の意なり。中むかしより、なべて世のならいとして、この和泉式部なども、法師の云う事をのみ常に聞きなれて、仏意の心にそみつきたりしより、さる夢をも見たるにこそ有りけめ、神はいかでか斯かる御心ならむ。塵にまじわるなど云うことも、からぶみの老子と云うに、和光同塵と云えることの有るをとりて云い出でたるみだり事にこそあれ、さらに神の御うえに無き事なり。ゆめこうようのひが事にまどいて、神をな穢し奉りそ。また同じ集同じ部に、度会の朝棟と云う人の歌に「かたそぎの千木は内外にかわれども誓はおなじいせの神風と有り、この歌のみならず、すべて神に、誓〓と云い、あるは跡たれてなど云う事を詠むは、皆ひが事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』十三の巻 宗祇法師の伝宗祇法師、姓は中臣氏飯尾、宗充の子なり。その先は世々紀州に居る。母は藤氏、嗣無きを憂え、一百日玉津島の神に祈る、満期の夜、玉子手に入り口にすると夢みて妊む。十三月にして祇を生む、時に応永廿八年なり。祇童卯より、和歌を好み、叔父宗砌に就きて学習す、自ら種玉庵と称す、母の玉を呑みて孕む瑞に因るなり。京師に上りて心敬にしたがい、草庵を岩倉の長谷に結ぶ。また老荘を好み、自ら自然斎と呼ぶ、文明三年、東常縁を訪い、親炙して歌道を請益す。常縁歌道の秘事を伝え、遺す所無し、後祇謝して京に返る。又詩を肆い禅に参じ、後居処を定めず、浮萍の客となり、諸国に遊ぶ、祇の伝を受くる者は、肖柏素純宗長宗碩等なり。文亀二年七月晦日、相州湯本の郵邸に卒す、八十二歳。駿州桃園定輪寺に葬り、松を墓上に栽うと、ある物にのせたり。
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『玉勝間』一の巻 立田川たとい歌はひが心得して詠む事も有りとも、さる詞書までを作るべき物かは。そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず。その外の古書にも、立田は山とのみこそ有れ、川はあること無し。立田川と詠めるは、みな今の京になりての歌にて、右に云う山崎のあなたなるなり。「もみじみだれて流るめり、の歌は、もしまことに奈良の帝の御(歌脱か)ならば、平城天皇なるべし。また「もみじ葉ながる神なびの、と云う歌は、飛鳥川と有るかた正しくて、大和なるべし。かの山崎のあなたなるは神なびとは云えど、みむろの山とは云うまじければなり。然るに拾遺集物の名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれる、と有るは、早くかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、斯くは詠み合わせたんめり。その後々の歌どもはさらなり。
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