玉勝間 / 九の巻 ふけひの浦吹上のはま
公任卿ノ集に、吹上のはまにいたりぬ、風の砂を吹きあぐれば、霞のたなびくやうなり、げに名にたがはぬ所なりけり。古今顯注にも、吹上ノ濱とは風のいたく吹て、濱のまさごを吹きあぐるが、面白きと申す云云。爲家ノ卿の、吹上の濱の眞砂山と詠み給へる歌、名寄に見ゆ。草根集にも、「時のまに眞砂吹上の山谷をつくりかへたる紀路のしほ風、など有り。今府城の西に砂山とて、ちひさき岡の有るも、古へはそのあたりも、吹上のうちにて、かの砂山の殘れるなり。ふけゐとも吹上とも云ふ名のよし、斯くの如し。はじめに出せる清正の歌のふけゐを、昔より、和泉ノ國と心得たるは、誤りなり。和泉なるは、ふけひにて、假字も異なり。紀の國のは、ふけゐと書べし。又紀の國に、日高ノ郡の海邊にも、ふけゐと云ふ地の名あれども、昔の歌どもに、詠めるはそれにはあらずと同じ書に云へり。此中に、名の意を、風の砂を吹あつむる由にて、ゐは集なりとして、ふけゐと書べしと云へるは、信られず。物をあつむる事を、ゐと云ふ事無し。されば假字も、ゐとは定めがたし。しばらく和泉のにならひて、ふけひとぞ書べき。
新字:公任卿ノ集に、吹上のはまにいたりぬ、風の砂を吹きあぐれば、霞のたなびくやうなり、げに名にたがはぬ所なりけり。古今顕注にも、吹上ノ浜とは風のいたく吹て、浜のまさごを吹きあぐるが、面白きと申す云云。為家ノ卿の、吹上の浜の真砂山と詠み給へる歌、名寄に見ゆ。草根集にも、「時のまに真砂吹上の山谷をつくりかへたる紀路のしほ風、など有り。今府城の西に砂山とて、ちひさき岡の有るも、古へはそのあたりも、吹上のうちにて、かの砂山の残れるなり。ふけゐとも吹上とも云ふ名のよし、斯くの如し。はじめに出せる清正の歌のふけゐを、昔より、和泉ノ国と心得たるは、誤りなり。和泉なるは、ふけひにて、仮字も異なり。紀の国のは、ふけゐと書べし。又紀の国に、日高ノ郡の海辺にも、ふけゐと云ふ地の名あれども、昔の歌どもに、詠めるはそれにはあらずと同じ書に云へり。此中に、名の意を、風の砂を吹あつむる由にて、ゐは集なりとして、ふけゐと書べしと云へるは、信られず。物をあつむる事を、ゐと云ふ事無し。されば仮字も、ゐとは定めがたし。しばらく和泉のにならひて、ふけひとぞ書べき。
書き下し
公任卿の集に、吹上のはまにいたりぬ、風の砂を吹きあぐれば、霞のたなびくようなり、げに名にたがわぬ所なりけり。古今顕注にも、吹上の浜とは風のいたく吹きて、浜のまさごを吹きあぐるが、面白きと申す云云。為家の卿の、吹上の浜の真砂山と詠み給える歌、名寄に見ゆ。草根集にも、時のまに真砂吹上の山谷をつくりかえたる紀路のしお風、など有り。今府城の西に砂山とて、ちいさき岡の有るも、古えはそのあたりも、吹上のうちにて、かの砂山の残れるなり。ふけいとも吹上とも云う名のよし、かくのごとし。はじめに出だせる清正の歌のふけいを、昔より、和泉の国と心得たるは、誤りなり。和泉なるは、ふけひにて、仮字も異なり。紀の国のは、ふけいと書くべし。又紀の国に、日高の郡の海辺にも、ふけいと云う地の名あれども、昔の歌どもに、詠めるはそれにはあらずと同じ書に云えり。この中に、名の意を、風の砂を吹きあつむる由にて、いは集なりとして、ふけいと書くべしと云えるは、信じられず。物をあつむる事を、いと云う事無し。されば仮字も、いとは定めがたし。しばらく和泉のにならいて、ふけひとぞ書くべき。
現代語訳
『公任卿集』に「吹上の浜に着いた。風が砂を吹き上げるので、霞がたなびくようである。本当に名に違わぬ所であった」とある。『古今集顕注』にも「吹上の浜とは、風がひどく吹いて浜の細かい砂を吹き上げるのが趣深いことを言う」などとある。藤原為家卿が「吹上の浜の真砂山」とお詠みになった歌は『名寄』に見える。『草根集』にも「たちまちのうちに、真砂を吹き上げて山や谷を作り変えてしまう紀伊路の潮風よ」などとある。今、城下の西に砂山という小さな丘があるのも、昔はそのあたりも吹上の浜のうちで、その砂山が残ったものである。「ふけい」とも「吹上」とも言う名のいわれは、このとおりである。初めに挙げた清正の歌の「ふけい」を、昔から和泉国のことと心得ていたのは誤りである。和泉のは「ふけひ」で、仮名遣いも異なる。紀伊国のは「ふけゐ」と書くべきである。また紀伊国の日高郡の海辺にも「ふけい」という地名があるが、昔の歌に詠んだのはそこではない、と同じ書に言っている。この中で、名の意味を、風が砂を吹き集めることからで「ゐ」は集めるの意だとして、「ふけゐ」と書くべきだと言っているのは信じられない。物を集めることを「ゐ」と言うことはない。だから仮名も「ゐ」とは定めがたい。しばらくは和泉のものにならって「ふけひ」と書くべきである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 ふけひの浦吹上のはま同集雑に、藤原の清正、あまつ風ふけいの浦にいるたづのなどか雲いにかえらざるべき、この歌、家の集に、詞書に、紀の守になりて、まだ殿上もかえりせでと有り。又大和物語に、故右京のかみ宗于の君云云、亭子のみかどに紀の国より、石つきたるみるをなん奉りけるを、題にて云云、沖つ風ふけいの浦に立つ浪のなごりにさえやわれはしづまむ。又廬主熊野紀行に、紀の国の吹上の浜にとまれる、月いと面白し。この浜は、天人つねに下りて、遊ぶと云い伝えたる所なり云云。おとめこがあまのは衣引きつれてうべもふけいの浦におるらむ。月のうみのおもにやどれるを、浪のしきりに洗うを見て、月に浪かかるおり又ありきやとふけいの浦のあまに問わばや。これらのふけいの浦は、紀の国にて、右の廬主の歌によれば、吹上の浜の一名なり。ふけいと云う名は、風の砂を吹きあつむる由にて、いは集の意なり。風の砂をふき集むとは、この吹上の浜は、西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上げて、一夜のほどに吹きあつめて、山をなし、又しばしが程に、吹き散らして、もとの平地となり、或は時のまに、その所をかうる事あり。これによりて、吹上の浜とは云うなり。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』十四の巻 名所歌枕の国郡を論ずるに、古き歌に詠めるをよく考えて、その国郡を定むべし。後世の歌は、ただ歌の趣意により来たれる所を詠む故に、その国所をば知らずそらに詠める故に、後世の歌はさらに拠とするに足らず。題詠のみならず、後世の歌は、その所にいたりて詠めるも取りがたき事あり。いかにと云うに、古き歌枕を、中昔の書に某国にありと注せるには、いみじく誤れる事のみ多きを、後の人、その誤れる注によりて、その国にその名所をつくりかまえて、或いは万葉に詠める某山はこれなりなど云うたぐい多きを、それも年を経ればその名のひろまりて、もとよりその所の如くなれるを、他国の歌人そこに到りて、その名を聞きて詠めるたぐい多ければなり。
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『玉勝間』一の巻 水茎の岡また水ぐきの岡、近江に有りと云うもよし無きことなり。十に、水ぐきの岡とのみにて、水門と云わざる歌あるは、前後みな大和の地名を詠める歌の中なれば、筑前には有らで、大和なるべし。高市の郡飛鳥の岡を、今も岡と云い、岡寺と云うも有れば、この所ならむか。十二にも見えたるは、いづくにも有れ岡にて、地名にはあらざるか。また古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたと詠めるは、岡屋県にて、和名抄に、山城の国宇治の郡岡屋乎加乃也と有る所なり。後に岡の屋の関白と申ししがおわせしも、この地名なり。県をがたと云うは、山県・片県などの如し。然るに是れをも、水ぐきの岡と云う地名と思い、やがたを屋形と、心得たるは、みなひがことなり。屋形と云う物は、船などにこそ有れ、家を屋形と云うことは、古には無き事なるをや。さて水ぐきぶりと云うは、楽府にて云う称にて、その歌のはじめの詞を取りてつけたる物にて、地名に限れる事には有らず。この某ぶりと云う名の事は、古事記伝に、ひなぶりの下に委しく云えり。さてまたせうそこ書をみづぐきと云うは、玉つさと云うと同じくて、これもみづみづしき木と云う事なり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』五の巻 和泉の和ノ字の事国名のいずみを、和泉と書く。和の字は、いかなる故をもて、添えられたるにか、年頃いぶかしかりつるを、つらつら思えば、まずいずみと云うは、和泉郡ありて、上泉、下泉ちょう郷も有れば、そこより出でたる国の名なる事は、論無し。斯くてその郷の内、府中村と云うに、今も和泉の井とて、いとめでたき清水有りて、そこに泉の井の上の神社、和泉の神社なども有りて、式にも見ゆ。然るに並河氏が書ける和泉志を見れば、この和泉の井を挙げて、その水清く且つ甘しと記せるをもて思えば、この清水、上つ代よりいと清くて、甘かりし故に、にぎいずみと号けて、和泉と書きたりしを、その里人などは、ただ泉とのみ云いならえるが、ひろごりて、名高き水なれば、京人なども、泉とのみ云いあえりしままにて、郡の名にも、国の名にも成れるを、すべて国郡などの名、二字に書く事なる故に、文字には必ず、本の名のごとく、和泉とは書くなるべし。やまとの国も、語には常には、ただやまととのみ云うを、もじには必ず大の字を添えて、大和と書くと同じたぐいなり。されば和泉の和の字は、もとにぎ泉と云いけんゆえとぞ思わるる。
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