玉勝間 / 九の巻 紀の国の鳴滝
新古今集神祇ノ部に、思ふこと身にあまるまでなる瀧の云云と云へる歌の、なる瀧は、紀の國名草ノ郡、園部村の奧に在て、いにしへ修驗道の一塲にして、名高き所なり。役ノ小角開基と云へり。熊野の神の、夢に告給へること、よし有リ、今ノ世に、本宮の邊に、鳴瀧とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云へり。
新字:新古今集神祇ノ部に、思ふこと身にあまるまでなる滝の云云と云へる歌の、なる滝は、紀の国名草ノ郡、園部村の奥に在て、いにしへ修験道の一塲にして、名高き所なり。役ノ小角開基と云へり。熊野の神の、夢に告給へること、よし有リ、今ノ世に、本宮の辺に、鳴滝とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云へり。
書き下し
新古今集神祇の部に、思うこと身にあまるまでなる滝の云云と云える歌の、なる滝は、紀の国名草の郡、園部村の奥に在りて、いにしえ修験道の一場にして、名高き所なり。役の小角開基と云えり。熊野の神の、夢に告げ給えること、よし有り、今の世に、本宮の辺に、鳴滝とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云えり。
現代語訳
『新古今集』神祇の部に「思うこと身にあまるまでなる滝の」と詠まれた歌の「なる滝(鳴滝)」は、紀伊国名草郡の園部村の奥にあって、昔、修験道の行場の一つで、名高い所である。役小角が開いたと言う。熊野の神が夢でお告げになった歌であることには、いわれがある。今の世に、熊野本宮のあたりに鳴滝というものがあるのは、あの歌によって後から付けた名である、とこれも同じ書(紀伊国の地誌)に言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』九の巻 妹背山万葉に、紀の国と詠みたれども、それは名手の川中なる瀬の山を、まがえて誤れるかと云い、かの貝原なども、吉野なるを、それなりと云えるは、みな後の歌にのみなずみて、万葉をよく見ざる、ひがことなり。万葉のおもむき、紀の国なる事は、何の疑いも無し。今も吉野に、それとて有るは、古今集の歌につきて、後に似つかわしき山を、それと名附けたる物なり。そもそも古今集なる、ながれてはの歌は、かの万葉七の、せの山にただにむかえる云云、うち橋わたす、又同巻に、きの川のべの妹と背の山、など有る歌によりて、妹背の山の中に落つるとは云い、よしやと重ねん料に、紀の川を、同じ川なれば、吉野の川とも詠みなせるものなり。又その歌に、よし野の川と云い、落つるとも有るから、六帖なるは、その川を、滝とも唱え伝えたるなるべし。
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『玉勝間』一の巻 立田川たとい歌はひが心得して詠む事も有りとも、さる詞書までを作るべき物かは。そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず。その外の古書にも、立田は山とのみこそ有れ、川はあること無し。立田川と詠めるは、みな今の京になりての歌にて、右に云う山崎のあなたなるなり。「もみじみだれて流るめり、の歌は、もしまことに奈良の帝の御(歌脱か)ならば、平城天皇なるべし。また「もみじ葉ながる神なびの、と云う歌は、飛鳥川と有るかた正しくて、大和なるべし。かの山崎のあなたなるは神なびとは云えど、みむろの山とは云うまじければなり。然るに拾遺集物の名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれる、と有るは、早くかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、斯くは詠み合わせたんめり。その後々の歌どもはさらなり。
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『玉勝間』十三の巻 信濃国の或村村の神事にうたふ歌ある人の云わく、しなのの国の、天竜川の河上なる、川村和田きさわなど云う里里の神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、そのめぐりに、幣を立ておきて、夜更けて、その釜のほとりに、里人男女、老いたる少き打ち交じりつどいて、その幣をとり持ちて、うたう歌。おゆめすときのな、おみかげこぐそ〓〓、やくもだのぼれ〓〓、
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『玉勝間』二の巻 又立田川然るに今水無瀬の里を過ぎて、はるかにあなたに、神内村と云う有りて、そのほとりに、ちいさき森のかたも有りて、これなむ神なびの杜なると云うなれど、そこにては、古の歌どもにかなわず、その近きほどには川も無し。思うに神内と云うは、後に地をうつして、古の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有るべし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるように聞こゆるは同じ山ざきの内ながら、その里よりかの森までと云うなるべし。
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『玉勝間』一の巻 立田川古今集秋下に、神なびの山を過ぎて、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるを詠める、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる。この神なび山は、山城の国乙訓の郡にて、同集別の部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、と有ると同じ所なり。さて源の重行集に、山崎川を立田川と云うを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出でしより後くやしきは船路なりけり、と有り。然れば立田川と云うも、山崎のあなた、津の国島上の郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道なり。大和の国の立田とは別なり。然るを、神なび山と云うも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和の国のとのみ思えり。契沖も然か心得て、神なび山は高市の郡、立田は平群の郡にて遥かにへだたれれば、その山の紅葉の、立田川に流るべきことわり無しと云いて疑いたり。されど詞書に、歌ぬしのみづから、その山を越え、その川を渡りて詠めると有れば、誤りとは云いがたし。然るを吾師は、もとよりかの歌をひがこととして、詞書をさえ、撰者の作れるがごとく云われたるは、云い過ごしなりけり。
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