玉勝間 / 二の巻 又立田川
然るに今水無瀨の里を過て、はるかにあなたに、神内村と云ふ有て、そのほとりに、ちひさき森のかたも有て、これなむ神なびの杜なると云ふなれど、そこにては、古、の歌どもにかなはず、其近きほどには川も無し。思ふに神内と云ふは、後に地をうつして、古、の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有べし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるやうに聞ゆるは同じ山ざきの內ながら、其里よりかの森までと云ふなるべし。
新字:然るに今水無瀨の里を過て、はるかにあなたに、神内村と云ふ有て、そのほとりに、ちひさき森のかたも有て、これなむ神なびの杜なると云ふなれど、そこにては、古、の歌どもにかなはず、其近きほどには川も無し。思ふに神内と云ふは、後に地をうつして、古、の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有べし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるやうに聞ゆるは同じ山ざきの内ながら、其里よりかの森までと云ふなるべし。
書き下し
然るに今水無瀬の里を過ぎて、はるかにあなたに、神内村と云う有りて、そのほとりに、ちいさき森のかたも有りて、これなむ神なびの杜なると云うなれど、そこにては、古の歌どもにかなわず、その近きほどには川も無し。思うに神内と云うは、後に地をうつして、古の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有るべし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるように聞こゆるは同じ山ざきの内ながら、その里よりかの森までと云うなるべし。
現代語訳
ところが今、水無瀬の里を過ぎてはるか向こうに神内村というところがあり、そのほとりに小さな森の形もあって、これこそ神なびの杜だと言っているが、そこでは古の歌々に合わず、その近くには川もない。思うに、神内というのは、後に場所を移して古の名を残したものではなかろうか。あの森の形も、その後に作ったものであろう。『古今集』の詞書に「山崎より神なびの森まで」などとあるのが、山崎を離れて向こうにあるように聞こえるのは、同じ山崎の内ではあるが、その里からあの森まで、という意味であろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 立田川古今集秋下に、神なびの山を過ぎて、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるを詠める、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる。この神なび山は、山城の国乙訓の郡にて、同集別の部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、と有ると同じ所なり。さて源の重行集に、山崎川を立田川と云うを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出でしより後くやしきは船路なりけり、と有り。然れば立田川と云うも、山崎のあなた、津の国島上の郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道なり。大和の国の立田とは別なり。然るを、神なび山と云うも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和の国のとのみ思えり。契沖も然か心得て、神なび山は高市の郡、立田は平群の郡にて遥かにへだたれれば、その山の紅葉の、立田川に流るべきことわり無しと云いて疑いたり。されど詞書に、歌ぬしのみづから、その山を越え、その川を渡りて詠めると有れば、誤りとは云いがたし。然るを吾師は、もとよりかの歌をひがこととして、詞書をさえ、撰者の作れるがごとく云われたるは、云い過ごしなりけり。
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『玉勝間』二の巻 又立田川立田川と云うは、前の巻にいえる如く、山崎川の事なるを、そは今いずれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかえるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、この川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考うるに、水無瀬川と云うは、後の名にて、この河ぞ古の立田川なるべき。この川、山崎と水無瀬とのさかいにあり。山城の国と津の国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津の国島の上の郡になん有りける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思うに、古はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合わせたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城の国乙訓の郡、玉手より祭り来る酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀また臨時祭式などに、山崎の神ともあれば、この神社によりたる名にて、すなわち山崎山の事にぞあるべき。この社は、すなわち今の山崎天王なりとも云えり。
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『玉勝間』一の巻 立田川たとい歌はひが心得して詠む事も有りとも、さる詞書までを作るべき物かは。そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず。その外の古書にも、立田は山とのみこそ有れ、川はあること無し。立田川と詠めるは、みな今の京になりての歌にて、右に云う山崎のあなたなるなり。「もみじみだれて流るめり、の歌は、もしまことに奈良の帝の御(歌脱か)ならば、平城天皇なるべし。また「もみじ葉ながる神なびの、と云う歌は、飛鳥川と有るかた正しくて、大和なるべし。かの山崎のあなたなるは神なびとは云えど、みむろの山とは云うまじければなり。然るに拾遺集物の名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれる、と有るは、早くかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、斯くは詠み合わせたんめり。その後々の歌どもはさらなり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古えのを、中頃とめ失いたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有りける。そのゆえを云わむには、まずこの古き所を尋ぬるわざは、ただに古の書どもを考えたるのみにては、知りがたし。いかに委しく考えたるも、書もて考え定めたる事は、その所にいたりて見聞けば、いたく違う事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、その国にては、さすがに書も伝え、語りも伝えて、まがい無き事も有り。さればみずからその地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問い聞きなどもせでは、事たらわず。またただ一たび物して、見聞きたるのみにても、なおたらわず。行きて見聞きて立ちかえりて、またふみどもと考え合わせて、またまたも行きて、よく見聞きたるうえならでは、定めがたかるべし。さてまたそのところの人に逢いて、問い聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古えの事を、あまりたしかに知りがおに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考えなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云うが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物そこないなり。
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『玉勝間』二の巻 水無瀨川古にみなせ川と云いしは、一つの川の名には有らず、いずれにまれ、水の無き川と云う事にて、あるは砂の下を水はとおりて、うわべに水無き川をも云えり。万葉四に、「恋にもぞ人は死にする水瀬川下ゆわれ痩す月に日に気に、十一に、「こちたくは中はよどませ水無河たゆとうことをありこすなゆめ。また「うらぶれてものは思わじ水無瀬川有りても水はゆくちう物を。古今集恋二に「ことに出でて云わぬばかりぞみなせ川下に通いて恋しき物を。恋五に、「逢い見ねば恋こそまされ水無瀬河なににふかめて思いそめけむ。また「みなせ川有りてゆく水なくはこそつひに我身をたえぬと思わめなどある、皆その意なり。また万葉十に、「久かたの天のしるしと水無河へだてておきし神代し恨めし。これは天の川を云えるにて、まさしく水の無きよしなり。然るに右の歌どもを皆、かの山崎のあなたなる水無瀬川と心得たるは、ひが事なり。山ざきのあなたなるは、古は山崎川とも、立田川とも云えりしこと、上の件に云えるが如くにて、みなせ河と云うは、古今集などの頃よりは後の名なり。
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