玉勝間 / 九の巻 紀の国の名どころども
上ノ件磯間ノ浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそも此紀の國は、古き名どころども多くして、萬葉集にも、殊におほく見えたるを、世の人は、いづれの郡にありとだに、え知らぬ所所の多かるを、此國にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを寫し置きつる中に、確かならぬさまに聞ゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覺ゆるかぎりを、其れ彼れとえりいでて、記るせる程に、此卷は、すずろに紀の國の名所集のやうにぞ成りぬる。猶式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思へば、ここにはみな漏らしつ。
新字:上ノ件磯間ノ浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそも此紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊におほく見えたるを、世の人は、いづれの郡にありとだに、え知らぬ所所の多かるを、此国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞ゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、其れ彼れとえりいでて、記るせる程に、此巻は、すずろに紀の国の名所集のやうにぞ成りぬる。猶式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思へば、ここにはみな漏らしつ。
書き下し
上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
現代語訳
上に挙げた磯間の浦から先は、みな牟婁郡である。そもそもこの紀伊国は古い名所が多くて、『万葉集』にもとりわけ多く見えているのに、世の人はどの郡にあるかさえ知らない所が多い。それをこの国では隠れもなく皆がよく知っていることや、またそうでないものも書物にはみな記してあるのが見過ごしがたくて、そのおおよそを写しておいた中から、確かでないように聞こえるものはみな漏らし、そうであろうと思われるものだけをあれこれと選び出して記したので、この巻は思いがけず紀伊国の名所集のようになってしまった。なお『延喜式』に載っている神社のことも、ことごとく記したものがあるが、それはまた別に記そうと思うので、ここではみな漏らした。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころどもむかし元弘元年七月三日、大地震にて、紀の国千里の浜、廿よ町がほど、たちまち陸となれる由、太平記にしるせり、三名部は、岩代の南なり、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、島有り、これ鹿島なり。さて三名部の南に、堺浦と云う有りて、郡堺なり。そこまでは日高の郡、それよりあなたは、牟婁の郡なり。磯間の浦は、田辺の王宿村の南、神子の浜続きに有り。神島は、その一里ばかり海中に有りて、かしまとも云えり。白良浜は、湯崎鉛山と、瀬戸とのあいだに在りて、里人は白浜と云えり。この浜の真砂、遠く見れば、雪のごとし。神の蔵山は、新宮より二町ばかり東南(一書には西南)に有り。社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭ると云えり。石の階を、六間ばかりのぼりて、上に堂有りて、地蔵の像を置けりと云えり。それを神の倉権現と云いて、その外に社は無し。かの高倉下の命の、神剣を得たりし地は、ここなりとぞ。熊野の村は、新宮に、上熊野、中熊野、下熊野とて、三村あり。三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかり有りて、けしきよき所なり。佐野は、佐野村と云う有りて、三輪が崎の続きなり。佐野の岡は、村より七八町北に有り。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云う所より、十町ばかり西南に有り。離小島と云えるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云えるなるべし。その外には島は無し。熊野の御崎は、那智山の下浜の宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云う。その間に、上野村と云う有り。海中へ長くつき出でたる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云えり。三前神社あり、少彦名の命を祭る。この所の海は、のぼり潮くだり潮とて、年を重ねて、片瀬に流れて、しおの満干にかかわらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬の村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行きて、木の本と云う所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田の神社、又花の窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云う。この窟の山、高さ廿四五間、周り三町ばかり有り。この窟は、伊邪那美の尊を葬り奉れる所と云うを、又或る説には、いざなみの尊を葬り奉れる所は、産田の神社にて、花の窟は火の神なりとも云えり。楯が崎は、木の本の庄二木島と云う所より、一里ばかり海中に有り。むかしはこの所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云えり。錦の浦は、長島の庄長島村の、一里ばかり東なり。この地、むかしは志摩の国なりしとぞ。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事ふるき神の社の、今は絶えたる、また絶えざれども、定かならず成りぬるなど、いずくにも多かるは、いと悲しきわざなり。神祇官の帳にのれるなどは、欠けてもさは有るまじきわざなるを、中頃の世の乱れに、天の下のよろずの事も、古の掟も、皆みだれに乱れ、絶え失せに絶え失せにたる、万ずにつけて、いともいともかなしきは、乱れ世のしわざなりけり。さるを今の御世は、古えにも稀なるまで、よく治まりて、いともめでたく、天の下栄えに栄ゆるままに、よろずに古をたずねて、絶えたるを起こし、おとろえたるを直し給う御世にし有れば、神の社どもは、殊に古に立ちかえりて、栄ゆべき時なりけり。しか有るにつけては、絶えたるは、跡をだに定かに尋ねまほしく、また今も有りながら、さだかならず、疑わしきをば、よく考え尋ねて、確かにそれと、定め知らまほしきわざになむ有りける。次には神の社ならぬも、古えに名あるところどころ、歌枕なども、今は定かならぬが多かるは、かかるめでたき時世にあたりて、尋ね置かまほしきわざなり。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事木だちなど、二三百年をも経ぬるは、いといと物ふりて見ゆるものなれば、古く見ゆるにつきても、たやすくは定めがたきわざなりかし。村の名、山川浦磯などの名に、心をつけて尋ぬべし。田どころなどのあざなと云う物などをも、よく尋ぬべし。寺の名に、古きが残れるがよく有ることなり。しかは有れどもまた、すべて名によりて、誤る事も有るわざなり。また寺々の縁起と云う物、おおかた例の法師の空ごと勝ちなれど、その中に、まれまれには取るべき事もまじれるものなれば、これはたひたぶるには捨つべきに有らず。古きあとは、中頃法師どもの、国人をあざむきて、仏どころにしなしたるが、いずれの国にも多ければ、ほとけ所をも、その心して尋ぬべし。古き寺には、古き書き物など有りて、古き事の残れる多し。むげに尋ぬべきたずき無き所も、思いかけぬところより、たしかなるしるしの出で来るようも有れば、いたらぬ限り無く、よろずに思いめぐらして、委しく尋ぬべし。かくて尋ね得たりと思うところも、なおたしかには定むべからず。世にさるべき人の定めおきつる所などは、ひがさだめなるも、ついにそこに定まりて、後のまどいとなるわざなりかし。そもそもこのくだりは、名所を尋ぬるわざのみにも有らず、万ずの考えにもわたる事どもありぬべくなむ。
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