玉勝間 / 九の巻 ふけひの浦吹上のはま
同集雜に、藤原ノ清正、「あまつ風ふけゐの浦にゐるたづのなどか雲ゐにかへらざるべき、此歌、家ノ集に、詞書に、紀の守になりて、まだ殿上もかへりせでと有り。又大和物語に、故右京ノかみ宗干の君云云、亭子のみかどに紀の國より、石つきたるみるをなん奉りけるを、題にて云云、「沖津風ふけゐの浦に立浪のなごりにさへやわれはしづまむ。又廬主熊野紀行に、紀の國の吹上の濱にとまれる、月いと面白し。此濱は、天人つねに下りて、遊ぶと云ひつたへたる所なり云云。「をとめこがあまのは衣引つれてうべもふけゐの浦におるらむ。月のうみのおもにやどれるを、浪のしきりに洗ふを見て、「月に浪かかるをり又ありきやとふけゐの浦のあまに問はばや。是等のふけゐの浦は、紀の國にて、右の廬主の歌によれば、吹上の濱の一名なり。ふけゐと云ふ名は、風の砂を吹あつむる由にて、ゐは集の意なり。風の砂をふき集むとは、此吹上の濱は、西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上て、一夜のほどに吹あつめて、山をなし、又しばしが程に、吹き散らして、もとの平地となり、或は時のまに、その所をかふる事あり。これによりて、吹上の濱とは云ふなり。
新字:同集雑に、藤原ノ清正、「あまつ風ふけゐの浦にゐるたづのなどか雲ゐにかへらざるべき、此歌、家ノ集に、詞書に、紀の守になりて、まだ殿上もかへりせでと有り。又大和物語に、故右京ノかみ宗干の君云云、亭子のみかどに紀の国より、石つきたるみるをなん奉りけるを、題にて云云、「沖津風ふけゐの浦に立浪のなごりにさへやわれはしづまむ。又廬主熊野紀行に、紀の国の吹上の浜にとまれる、月いと面白し。此浜は、天人つねに下りて、遊ぶと云ひつたへたる所なり云云。「をとめこがあまのは衣引つれてうべもふけゐの浦におるらむ。月のうみのおもにやどれるを、浪のしきりに洗ふを見て、「月に浪かかるをり又ありきやとふけゐの浦のあまに問はばや。是等のふけゐの浦は、紀の国にて、右の廬主の歌によれば、吹上の浜の一名なり。ふけゐと云ふ名は、風の砂を吹あつむる由にて、ゐは集の意なり。風の砂をふき集むとは、此吹上の浜は、西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上て、一夜のほどに吹あつめて、山をなし、又しばしが程に、吹き散らして、もとの平地となり、或は時のまに、その所をかふる事あり。これによりて、吹上の浜とは云ふなり。
書き下し
同集雑に、藤原の清正、あまつ風ふけいの浦にいるたづのなどか雲いにかえらざるべき、この歌、家の集に、詞書に、紀の守になりて、まだ殿上もかえりせでと有り。又大和物語に、故右京のかみ宗于の君云云、亭子のみかどに紀の国より、石つきたるみるをなん奉りけるを、題にて云云、沖つ風ふけいの浦に立つ浪のなごりにさえやわれはしづまむ。又廬主熊野紀行に、紀の国の吹上の浜にとまれる、月いと面白し。この浜は、天人つねに下りて、遊ぶと云い伝えたる所なり云云。おとめこがあまのは衣引きつれてうべもふけいの浦におるらむ。月のうみのおもにやどれるを、浪のしきりに洗うを見て、月に浪かかるおり又ありきやとふけいの浦のあまに問わばや。これらのふけいの浦は、紀の国にて、右の廬主の歌によれば、吹上の浜の一名なり。ふけいと云う名は、風の砂を吹きあつむる由にて、いは集の意なり。風の砂をふき集むとは、この吹上の浜は、西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上げて、一夜のほどに吹きあつめて、山をなし、又しばしが程に、吹き散らして、もとの平地となり、或は時のまに、その所をかうる事あり。これによりて、吹上の浜とは云うなり。
現代語訳
同じ集(『新古今集』)の雑の部に、藤原清正の歌「天つ風が吹く吹飯の浦にいる鶴は、どうして雲の上に帰れないことがあろうか」がある。この歌は、家集の詞書に「紀伊守になって、まだ殿上に戻ることもできずに」とある。また『大和物語』に、故右京大夫宗于の君が、亭子の帝(宇多天皇)に紀伊国から石の付いた海松を献上したのを題にして、「沖の風が吹く吹飯の浦に立つ波の名残にさえ、私は沈んでしまうのだろうか」と詠んだ話がある。また廬主(増基法師)の熊野紀行に、「紀伊国の吹上の浜に泊まった。月がたいそう美しい。この浜は天人がいつも降りてきて遊ぶと言い伝えている所である」とあり、「乙女たちが天の羽衣を連ねて、なるほど吹飯の浦に降りてくるのだろう」、また月が海面に映っているのを波がしきりに洗うのを見て、「月に波がかかるこんな折がまたあっただろうかと、吹飯の浦の海人に尋ねてみたい」とある。これらの「ふけい」の浦は紀伊国のことで、右の廬主の歌によれば、吹上の浜の別名である。「ふけい」という名は、風が砂を吹き集めるという意味で、「い」は集めるの意である。風が砂を吹き集めるというのは、この吹上の浜は、西南の風が激しい時には白砂を高く吹き上げ、一夜のうちに吹き集めて山をなし、またしばらくの間に吹き散らしてもとの平地となり、あるいはたちまちその場所を変えることがある。これによって吹上の浜と言うのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 ふけひの浦吹上のはま公任卿の集に、吹上のはまにいたりぬ、風の砂を吹きあぐれば、霞のたなびくようなり、げに名にたがわぬ所なりけり。古今顕注にも、吹上の浜とは風のいたく吹きて、浜のまさごを吹きあぐるが、面白きと申す云云。為家の卿の、吹上の浜の真砂山と詠み給える歌、名寄に見ゆ。草根集にも、時のまに真砂吹上の山谷をつくりかえたる紀路のしお風、など有り。今府城の西に砂山とて、ちいさき岡の有るも、古えはそのあたりも、吹上のうちにて、かの砂山の残れるなり。ふけいとも吹上とも云う名のよし、かくのごとし。はじめに出だせる清正の歌のふけいを、昔より、和泉の国と心得たるは、誤りなり。和泉なるは、ふけひにて、仮字も異なり。紀の国のは、ふけいと書くべし。又紀の国に、日高の郡の海辺にも、ふけいと云う地の名あれども、昔の歌どもに、詠めるはそれにはあらずと同じ書に云えり。この中に、名の意を、風の砂を吹きあつむる由にて、いは集なりとして、ふけいと書くべしと云えるは、信じられず。物をあつむる事を、いと云う事無し。されば仮字も、いとは定めがたし。しばらく和泉のにならいて、ふけひとぞ書くべき。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども待乳山は、大和の国の堺にて、紀の国伊都の郡なり。角田川は、待乳川の事なるべし。この川みなもとは、葛城山のうちより出でて、北隅田の庄を流れて、きの川に落つるなり。紀の関は、和泉の国より、紀の国の名草の郡に越ゆる、雄山に在りて、南のふもとなる、山口村に近し。袖中抄に、雄山の関守と有り。白鳥の関と云えるもこの関の事なるべし。名草山は、紀三井寺の山なり。飽等浜は、海士の郡賀田浦の南の方に、田倉崎と云う所ある、これなりと、里人の云い伝えたるとぞ。吹上の浜は、若山の西南にて、若の浦の北なり。雄水門は、今若山の内に、湊と云う所に、小野町と云う有りて、蛭子の社ある、そこに雄之芝と云う有り。五瀬の命の薨ましし跡なりと云えり。小野町と云うも、もと雄の町なりと云えり。この蛭子の社に吹上の社と云うをも、並べ祭れり。或る説には、吹上の社は、関戸村の矢の宮なりとも云えり。雑賀浦は、海士の郡にて、雑賀の庄とて、広き所なるその中に、若の浦の西の方に、雑賀崎と云うところ有り、このわたり雑賀の浦なるべし。浦の初島は、同郡、浜中の庄椒村の八町ばかり海中に、地の島と云う有り、東西四町あまり、南北八町ばかりの島なり。その島の三町ばかり西に、又島有りて、沖の島と云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』六の巻 しはつ山 笠縫ノ島古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆいの島こぎかくるたななしおぶね、これは万葉三の巻に、四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船、と有る歌なるを、笠ゆいとは、歌いひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬいの島は、或る人の云わく、ともに津の国なり、しはつ山は、今の世、住吉より東の方、喜連と云う所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、これなり。雄略紀に、十四年正月、呉の国人の参れるところに、云云住吉津に泊まる、この月呉の客の道の為に磯歯津路を通し、呉坂と名づく、と有り。今云う喜連は、久礼を訛れるなり。このところ住吉の郡の東のはて、河内の堺にて、古は河内の国渋河の郡につきて、伎人郷と云いし所なり。今もこの道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとおりて、古に呉の国の人のとおりし道なりと、語り伝えたり。難波の古の図を見るに、住吉の社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。万葉六の巻に、千沼廻より雨ぞ降り来る四八津の泉郎網手綱乾せり濡れあえんかも、右一首、住吉の浜に遊覧して宮に還る時、道の上にて守部王詔に応じて作る歌、と有るにかなえり。さて笠縫の島は、今東生の郡の深江村と云うところ、これなるべし。この所、菅田多く有りて、その菅他所より勝れたり。
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