玉勝間 / 九の巻 いそのへぢ
新古今集旅ノ部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢと有る所は、紀の國熊野に物するに、牟婁ノ郡田邊より、海べを經て、熊野に出る道あり、是れなるべし。此道伊勢まで續けり。長く磯づたひに行く路なる故に、いそのべぢとは云ふなるべし。今の俗にも、大濱路と云ふなり。行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり。又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の島云云と有るも、此道の事なるべしと、同じ書に云へり。
新字:新古今集旅ノ部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢと有る所は、紀の国熊野に物するに、牟婁ノ郡田辺より、海べを経て、熊野に出る道あり、是れなるべし。此道伊勢まで続けり。長く磯づたひに行く路なる故に、いそのべぢとは云ふなるべし。今の俗にも、大浜路と云ふなり。行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり。又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の島云云と有るも、此道の事なるべしと、同じ書に云へり。
書き下し
新古今集旅の部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢと有る所は、紀の国熊野に物するに、牟婁の郡田辺より、海べを経て、熊野に出づる道あり、これなるべし。この道伊勢まで続けり。長く磯づたいに行く路なる故に、いそのべぢとは云うなるべし。今の俗にも、大浜路と云うなり。行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり。又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の島云云と有るも、この道の事なるべしと、同じ書に云えり。
現代語訳
『新古今集』旅の部の、行尊大僧正の歌の詞書に「いそのへぢ」とある所は、紀伊国の熊野へ行くのに、牟婁郡の田辺から海辺を通って熊野に出る道があるが、それであろう。この道は伊勢まで続いている。長く磯伝いに行く道であるから、「いそのべぢ」と言うのであろう。今の世間でも「大浜路」と言う。行尊僧正が熊野へ出かけられた時の歌は、あれこれと歌集にも見えている。また西行法師の『山家集』に「いせのべぢの錦の島」などとあるのも、この道のことであろうと、同じ書(紀伊国の地誌)に言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども東西五町に、南北六町ばかり有り。この二つの島を、浦のはつ島と云う。小為手の山は、在田の郡、山保田の庄に、推手村と云う有り、これか。その村は、伊都の郡の堺にて、山のおくなり。白崎は、日高の郡、衣奈の庄衣奈浦の東南の方に、衣奈の八幡と云う有る、その社の縁起に、白崎と云うこと見えたり。三穂の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在り、岩屋の中に、石の観音の像あり、熊野道のうち、日高川塩屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有りて、和田松原と云う、この岩屋は、その西の際なり。野島阿胡根の浦は、同郡塩屋浦の南に、野島の里あり、その海べを、あこねの浦と云いて、貝の多くよりて集まる所なり。切目山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂、切目浦、切目村あり。山は村より一里ばかり東北なり。村の北に、切目の王子の社も有り。磐代は、同郡なり。切目を過ぎて、切目川有りて、次に磐代なり。西岩代東岩代とて村有り、岩代の王子の社、海べに有り。千里の浜は、岩代の南の辺より、南部までのあいだ、一里半ばかりの所を云う。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の鳴滝新古今集神祇の部に、思うこと身にあまるまでなる滝の云云と云える歌の、なる滝は、紀の国名草の郡、園部村の奥に在りて、いにしえ修験道の一場にして、名高き所なり。役の小角開基と云えり。熊野の神の、夢に告げ給えること、よし有り、今の世に、本宮の辺に、鳴滝とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云えり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども上の件磯間の浦よりこなたは、皆むろの郡なり。そもそもこの紀の国は、古き名どころども多くして、万葉集にも、殊に多く見えたるを、世の人は、いずれの郡にありとだに、え知らぬ所々の多かるを、この国にては、かくれ無くて、皆人よく知れるなど、又さらぬも、書どもには、皆記るしたるが、見過しがたくて、その大かたを写し置きつる中に、確かならぬさまに聞こゆるをば、皆漏らして、さも有りぬべく覚ゆるかぎりを、それかれとえりいでて、記るせる程に、この巻は、すずろに紀の国の名所集のようにぞ成りぬる。なお式にのれる神社どもの御事をも、ことごとく記るしたるも有るを、そは又別にも記るしてむと思えば、ここにはみな漏らしつ。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井万葉集の歌によめる、伊勢の国の五十師の原山の辺の御井は、鈴鹿の郡にて、今も山辺村と云う所なり。そこに山辺の赤人の屋敷跡と云い伝えたる地あり。又同じ人の硯水とて、古き井も有り。これ山の辺の御井なり。然るに赤人の事をしも云い伝えたるは、中昔よりして、山部ちょう姓と、山辺ちょう姓とまがいて、赤人の姓をも山の辺とせるから、此地の名につきて、云いよせたるひが事なり。さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし。さて五十師原を、万葉の今の本に、いそしのはらと訓みたれども、古はいそと云うに、五十と書ける事無ければ、誤なり。いしのはらと訓むべし。五十と書けるをば、伊と訓む古書の例なればなり。いしのはらとては、此句六文字にて、調悪ろしと思う人もあるべかめれど、そのかみ七もじの句を、六もじに云える例おおき中に、地の名などは、殊によりくるままに、四文字にも六文字にも詠める、つねの事なり。さていしの原と云う名のよしは、今石薬師の駅に、石薬師とて寺有りて、石の仏をまつれる、そは地の上におのずからに立てる、大きなる石のおもてに、薬師と云う仏のかたをえり附けたるにて、此石あやしき石なり。
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『玉勝間』九の巻 黒牛潟藤白糸鹿山黒牛潟は、今は黒江と云いて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江、干潟、名高と、つぎつぎにあいつらなりて三里、いずれも町づくりて、物うる家しげく立ちつづき、にぎわわしき里どもなり。皆入海のほとりにて、景色よし。黒江などは、山にもかたかけたる所なり。このわたり昔は、名草の郡なりしを、今は海士の郡と云えり。この紀の国の或る書に、この黒江の磯べに、昔いと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有りて、潮満つればかくれ、干ぬれば顕れけるを、いつの頃よりか、ようように土に埋もれゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、掘りあらわさむとせしかど、大きにして、ついにえ掘り出ださで止みぬるを、今はそのあたりまで、里続きて、かの石は、民の家の地の下に有る由しるしたり。藤白も、同じ郡なり。名高の里を離れて、南ざまに少し行けば、その坂の麓にて、ふじしろ村と云う有りて、そこに藤白の王子と申して、御社も、道のほとりに立ち給えり。くま野道なる、九十九所の王子と申す中の一つにて、俗に熊野の一の鳥居とぞ云うなる。
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