玉勝間 / 九の巻 桃花坊のふみぐらのふみの事
應仁の亂れに、一條ノ兼良ノおとどの、桃花坊の文庫燒けて、野原となり、そのあたりの盜賊ども、たちこぞりて、七百餘合のしみのすみかを引散らし、大路を反古となしたりしよし、此おとどの、竹林抄の序に書かせ給へり。亂れ世のしわざ、あさましなども世の常なり。そもそも七百餘合の書は、合ごとに、五十卷とはかりて三萬五千餘卷のふみなり。
新字:応仁の乱れに、一条ノ兼良ノおとどの、桃花坊の文庫焼けて、野原となり、そのあたりの盗賊ども、たちこぞりて、七百余合のしみのすみかを引散らし、大路を反古となしたりしよし、此おとどの、竹林抄の序に書かせ給へり。乱れ世のしわざ、あさましなども世の常なり。そもそも七百余合の書は、合ごとに、五十巻とはかりて三万五千余巻のふみなり。
書き下し
応仁の乱れに、一条の兼良のおとどの、桃花坊の文庫焼けて、野原となり、そのあたりの盗賊ども、たちこぞりて、七百余合のしみのすみかを引き散らし、大路を反古となしたりしよし、このおとどの、竹林抄の序に書かせ給えり。乱れ世のしわざ、あさましなども世の常なり。そもそも七百余合の書は、合ごとに、五十巻とはかりて三万五千余巻のふみなり。
現代語訳
応仁の乱の時に、一条兼良公の桃花坊の文庫が焼けて野原となり、そのあたりの盗賊たちがこぞって、七百余箱の書物(紙魚の住みか)を引き散らし、大路を反古紙で埋めてしまったということを、この公が『竹林抄』の序にお書きになっている。乱世のしわざは、あさましいなどという言葉ではとても言い尽くせない。そもそも七百余箱の書物は、一箱ごとに五十巻と見積もれば、三万五千余巻の書物である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 古書どもの事古きふみどもの、世にたえてつたわらぬは、万よりもくち惜しく歎かわしきわざなり。釈日本紀、仙覚が万葉の抄などを見るに、そのほどまでは、国々の風土記も大かたそなわりて、伝われりと見えたり。釈に引きたる上宮記と云う物は、いささかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きわふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有りけむ。また風土記は、いとたふとき物なるに、今はただ出雲一国ののみ、またくては残りて、ほかはみな絶えぬるは、かえすがえすもくち惜し。さるは応仁よりこなた、打ち続きたるみやこの乱れに、ふるき書どもも、みな焼けうせ、あるいは散りぼい失せぬるなるべし。そも今の世のごと、国々にも学問するともがら多く、書どもようじ持たる者おおからましかば、むげに絶えはつる事はあらじを、そのかみはいまだいなかには、学問するともがらもいといと稀れにして、京ならでは、おさおさ書どもも、無かりしが故なめり。されどから国のふるき書どもはしも、これかれといなかにも残れるが有るは、むねとからを好むよのならいなるが故なり。
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『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽の勝光明院の宝物の事久安二年八月廿三日庚申、是の日、法皇鳥羽の勝光明院の宝蔵に納むる所の宝物を御覧じ、即ち目録を書かるる事有り、件の目録は、先年白川の御所炎上の時、焼失するなり。顕密の聖〓、古今の典籍、道具書法、弓剣管絃の類、皆是れ往代の重宝なり。と同じ書に見えたり。
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『玉勝間』六の巻 一条天皇かくれさせ給ひて後御手箱に在ける宸筆の物の事一条院うせさせ給いて後、御堂殿御遺物どものさだ有りけるに、御手箱の有りけるを、ひらき御覧じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、書かせおわしましたりけるを、はじめに三光明らかならんと欲するに、重雲覆いて大精暗しとあそばされたりけるを、御覧じて、次さまを読ませたまわで、やがて巻きこめて、焼きあげられにけりとこそ。宇治殿は、隆国(宇治大納言)には語らせ給いけると、隆国は記して侍るなれ。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。
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