導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事

同書に、觀應三年十月十九日、入夜、綾小路中將敦有朝臣來、計略術盡之間、近日下ニ向濃州所領云云、諸人此式、不便事歟と見ゆ。はやく此程よりして、天の下の亂れにて、斯かる人人も、斯く京の住ひなりがたかりしが有しなり。これは應仁の亂レより、百十餘年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、斯く有し。

新字:同書に、観応三年十月十九日、入夜、綾小路中将敦有朝臣来、計略術尽之間、近日下ニ向濃州所領云云、諸人此式、不便事歟と見ゆ。はやく此程よりして、天の下の乱れにて、斯かる人人も、斯く京の住ひなりがたかりしが有しなり。これは応仁の乱レより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、斯く有し。

書き下し

同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。

現代語訳

同じ書(園太暦)に、「観応三年十月十九日、夜になって、綾小路中将敦有朝臣が来た。暮らしの手立てが尽きたので、近いうちに美濃国の所領へ下るという。人々がみなこのありさまなのは、気の毒なことであろうか」と見える。早くもこの頃から、天下の乱れのために、このような人々もこうして京での暮らしが成り立ちにくかった例があったのである。これは応仁の乱より百十年余り前のことである。足利氏の世は、おおかた初めのころから、こうであった。

解説

公家の困窮を記した一条の書き抜きである。綾小路敦有は都で暮らしが立たず、美濃の所領に下ると言って公賢を訪ねてきた。公賢は、誰もがこの有様で気の毒なことだと記す。宣長が強調するのは時期である。公家が京を離れて地方に下るのは応仁の乱以後の戦国の世のことと思われがちだが、それより百十年余り前、足利氏の世の初めからすでに始まっていた、と。一般に信じられている時代像を、日付の入った記録で修正しているのである。南北朝の内乱で荘園からの収入が途絶え、公家の暮らしが崩れていった事情がこの一行に見える。通説の年代を鵜呑みにせず、一次の記録に当たって確かめるという宣長の実証の姿勢がよく出ている。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る