玉勝間 / 九の巻 玉津島の神
おのれ一とせ、紀の國に物して、若山にしばしありし程、かの國の名所どもの事、しるしたる書ども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋ノ甚右衛門秀榮と云ひし人の、あらはせる物の中に、玉津島の神の考へ有。それにいはく、玉津島を、衣通姫なりと云ふ事、袋草子、又北畠ノ親房ノ卿の、古今ノ序注に引れたる、或抄などに見えたれど、據なき事なり。又近き世に稚日女尊なりと云ふ說も有れど、それは若ノ浦と云ふ地ノ名によりての、おしあてなるべし。今ひそかに按に、玉津島ノ神は、神功皇后なるべし。其故は、まづ攝津ノ國住吉ノ神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一說に、玉津島と云へり。袖中抄に、故左京亮被申云、住吉神主國基云。住吉は本三社なり、第四ノ社は、玉津嶋明神、卽チ衣通姫なり。後にいははれ給ふ、依て和歌を好み給ふと云へり。かく住吉ノ神主津守ノ國基の說に、第四ノ社を、玉津島明神なりと云へるは、玉津島神功皇后なる故に、此傳說有りしなり。然るを卽衣通姫なりと云へるは、世間の妄說によりて、誤れるなり。さて又玉津嶋を、和歌の神と申すは、もと若の浦の神と云ふ事なるべし。かの地ノ名を、若と云へばなり。
新字:おのれ一とせ、紀の国に物して、若山にしばしありし程、かの国の名所どもの事、しるしたる書ども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋ノ甚右衛門秀栄と云ひし人の、あらはせる物の中に、玉津島の神の考へ有。それにいはく、玉津島を、衣通姫なりと云ふ事、袋草子、又北畠ノ親房ノ卿の、古今ノ序注に引れたる、或抄などに見えたれど、拠なき事なり。又近き世に稚日女尊なりと云ふ説も有れど、それは若ノ浦と云ふ地ノ名によりての、おしあてなるべし。今ひそかに按に、玉津島ノ神は、神功皇后なるべし。其故は、まづ摂津ノ国住吉ノ神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一説に、玉津島と云へり。袖中抄に、故左京亮被申云、住吉神主国基云。住吉は本三社なり、第四ノ社は、玉津嶋明神、即チ衣通姫なり。後にいははれ給ふ、依て和歌を好み給ふと云へり。かく住吉ノ神主津守ノ国基の説に、第四ノ社を、玉津島明神なりと云へるは、玉津島神功皇后なる故に、此伝説有りしなり。然るを即衣通姫なりと云へるは、世間の妄説によりて、誤れるなり。さて又玉津嶋を、和歌の神と申すは、もと若の浦の神と云ふ事なるべし。かの地ノ名を、若と云へばなり。
書き下し
おのれ一とせ、紀の国に物して、若山にしばしありし程、かの国の名所どもの事、しるしたる書ども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋の甚右衛門秀栄と云いし人の、あらわせる物の中に、玉津島の神の考え有り。それにいわく、玉津島を、衣通姫なりと云う事、袋草子、又北畠の親房の卿の、古今の序注に引かれたる、或抄などに見えたれど、拠なき事なり。又近き世に稚日女尊なりと云う説も有れど、それは若の浦と云う地の名によりての、おしあてなるべし。今ひそかに按ずるに、玉津島の神は、神功皇后なるべし。その故は、まず摂津の国住吉の神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一説に、玉津島と云えり。袖中抄に、故左京亮申されて云う、住吉の神主国基云う。住吉は本三社なり、第四の社は、玉津嶋明神、即ち衣通姫なり。後にいわわれ給う、依て和歌を好み給うと云えり。かく住吉の神主津守の国基の説に、第四の社を、玉津島明神なりと云えるは、玉津島神功皇后なる故に、この伝説有りしなり。然るを即ち衣通姫なりと云えるは、世間の妄説によりて、誤れるなり。さて又玉津嶋を、和歌の神と申すは、もと若の浦の神と云う事なるべし。かの地の名を、若と云えばなり。
現代語訳
私はある年、紀伊国に出向いて、若山(和歌山)にしばらくいた間に、その国の名所のことを記した書物を、あれこれとその地の人が見せてくれたのを見た中に、岩橋甚右衛門秀栄という人が著したものの中に、玉津島の神についての考えがあった。それにはこうある。玉津島の神を衣通姫だとすることは、『袋草子』や、また北畠親房卿の『古今集序注』に引かれている或る抄などに見えるが、根拠のないことである。また近頃、稚日女尊だという説もあるが、それは若の浦という地名に引かれた当て推量であろう。今ひそかに考えるに、玉津島の神は神功皇后であろう。その理由は、まず摂津国の住吉神社の四座のうち、第四座は神功皇后であるのに、一説にこれを玉津島だと言っている。『袖中抄』に、故左京亮が申されたことには、住吉の神主国基が言うには、「住吉はもとは三社である。第四の社は玉津嶋明神、すなわち衣通姫である。のちに祀られなさった。それで和歌をお好みになる」と言ったという。このように住吉の神主津守国基の説で、第四の社を玉津島明神だと言っているのは、玉津島の神が神功皇后であるから、この言い伝えがあったのである。それなのに、すなわち衣通姫だと言ったのは、世間の根拠のない説によって誤ったのである。さてまた玉津嶋の神を和歌の神と申すのは、もとは若の浦の神ということであろう。その地の名を「わか」と言うからである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神又玉津島明神は、日前宮なりと云う説も有る、それも摂社なりしことを、さは誤り伝えたるなり。右の事どもを合わせて考うるに、玉津島の神は、疑い無く神功皇后なるべく思わるるなりと云えり。この考えなお事長きを、今ははぶきつづめて出だせり。この秀栄と云いしは、若山の人にて、近き頃みまかりぬとぞ。このふみは、それが甥なる、長原の忠睦と云うが、見せたりしなり。
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神さて又住吉を、和歌の神とすることも、第四の社神功皇后にて、若の浦の神なるより出でたる事なるべし。さて玉津島は、津を濁りて、玉出島なり。古書に斯く書きたり。うつほ物語の歌にはすなわち、玉いづる島とよめり。依て按ずるに、この地は、神功皇后の、新羅を伐ち給う時に、如意珠を海中に得給うと有る、その如意珠の出でたる地なるべし。神功皇后の、紀の国に来坐せる事、日本紀に見えて、由有り。かくてかの珠を得給える地なる故に、この皇后を祭れるなるべし。或説に、津の国住吉に、玉出の島あり、神功皇后新羅を伐ち給う時、干珠満珠を得給う、その珠の出でたる所なりと云えるは、紀の国の玉出島の事を、誤りて伝えたるなるべし。紀の国の玉出島の神を、後に住吉にも祭れるによりて、そこをも玉出島とは云うなるべし。新拾遺、住吉社の歌合、社頭祝、津守の国平の歌に、君がため玉出の岸にやわらぐる光の末は千世もくもらじ、又或説に、干珠満珠は、紀の国日前宮に納まる、と云えることも有り、これもよし有りておぼゆ。日前宮はもと、名草の浜の宮にましまして、そのかみ玉津島も、日前宮の摂社なりしかば、かの珠の、玉津島より出でたる事を、まがえて日前宮に納まるとは、云い伝えたるなるべし。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。
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『玉勝間』十二の巻 吉野の水分ノ神社余国にもこれかれ有り、祈年の祭また月次祭の祝詞に、水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して云云、と見えたり。さてこの水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申して、吉野のをも、六帖の歌、枕冊子などにも、みこもりの神と云い、今も子守大明神と申すこれなり。万葉七の巻の歌に、神さぶる磐根こごしきみよしのの水分山を見れば悲しも、と詠めるも、この神社の山なり。然るをみずわけやまとしも訓を付けたるは、この神の御名をだに知らざるひがことなり。また今の世に、吉野川ちかき丹治村と云う所に有る神社を、水分の神社とするも、いみしきひがことなり。水分の神社は、続紀に峰の神と有る如く、かの水分山の峰にして、今子守明神と申す御社なること、疑い無きを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水こもりと云う御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに当たるものにて、峰の神とあるにたがい、万葉なる歌のさまにも、かなわざる物をや。さてまた今時、このよし野山のすべてのさまを見るに、蔵王権現と云う物を、この山の主と祀りて、この水分の神その余も、やんごとなき神たちも、みなかの蔵王堂に属きたる、支社とぞなり給える。
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『玉勝間』七の巻 神社の祭る神を知らまほしくする事さればもとより某神と云う、古き伝えの無きを、しいて後に考えて、あらぬ神に定めむは、なかなかのひがことなり。もしその社の号によりて定めむとせば、たとえば伊勢の大神宮は、五十鈴の宮と申せば、祭る神は五十鈴姫の命にて、鈴の神、外宮は、わたらいの宮と申せば、綿津見命にて、海神なりとせむか。近き世に、物知り人の考えて定むるは、大かたこれに似たるものにて、いとうきたる事のみなれば、すべて信じがたし。知られぬをしいて求めて、あらぬ神となさむよりは、ただその社の号を、神の御名としてあらむこそ、古の意なるべきを、社の号のみにては、とらえ所無きがごと思うは、近き世の俗心にこそ有れ。今の世とても、世に広く云いならえる社号は、そをやがて神の御名と心得居て、八幡宮・春日明神・稲荷明神など云えば、必ずしもその神は、いかなる神ぞとまでは、たずねず、ただ八幡・春日・いなりにてあるにあらずや。もろもろの社も、皆同じことにて、社の号すなわちその神の御名なるものをや。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の名どころども玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦と云う所より、十町ばかり西南に有り。離小島と云えるは、玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩あれば、それを云えるなるべし。その外には島は無し。熊野の御崎は、那智山の下浜の宮よりゆく、海べの道を、大辺地と云う。その間に、上野村と云う有り。海中へ長くつき出でたる崎にて、塩の御崎とも、塩崎浦とも云えり。三前神社あり、少彦名の命を祭る。この所の海は、のぼり潮くだり潮とて、年を重ねて、片瀬に流れて、しおの満干にかかわらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたく恐るる所なり。有馬の村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行きて、木の本と云う所の、廿町ばかり南に有り。そこに産田の神社、又花の窟あり。里人訛りて、大般若の窟と云う。この窟の山、高さ廿四五間、周り三町ばかり有り。この窟は、伊邪那美の尊を葬り奉れる所と云うを、又或る説には、いざなみの尊を葬り奉れる所は、産田の神社にて、花の窟は火の神なりとも云えり。楯が崎は、木の本の庄二木島と云う所より、一里ばかり海中に有り。むかしはこの所、伊勢と紀の国の堺なりしと、里人云えり。錦の浦は、長島の庄長島村の、一里ばかり東なり。この地、むかしは志摩の国なりしとぞ。
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