玉勝間 / 八の巻 道者
伊勢にて、他國の參宮人を、道者と云へり。小朝熊ノ社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣道者、下總ノ國白井ノ郡ノ住人、南無妙房と有り。
新字:伊勢にて、他国の参宮人を、道者と云へり。小朝熊ノ社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣道者、下総ノ国白井ノ郡ノ住人、南無妙房と有り。
書き下し
伊勢にて、他国の参宮人を、道者と云えり。小朝熊の社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣の道者、下総の国白井の郡の住人、南無妙房と有り。
現代語訳
伊勢では、他国から参宮に来る人を「道者(どうしゃ)」と言っている。小朝熊社神鏡沙汰文の中の、天福二年の文書の言葉に「熊野詣の道者、下総国白井郡の住人、南無妙房」とある。
解説
伊勢で参宮の人を「道者」と呼ぶ習いの古さを、鎌倉時代の文書から確かめた段である。道者は、もとは仏道の修行者を言う語で、やがて寺社に参詣する巡礼者を広く指すようになった。伊勢の御師たちは、全国からやってくる参宮人を道者と呼び、宿や案内を世話して迎えた。宣長が見つけた天福二年の文書には、熊野詣の道者として下総国の住人の名が記され、すでにその頃、東国から遠く熊野や伊勢へ巡る参詣者がいたことを伝えている。小朝熊社は伊勢神宮の摂社で、神鏡をめぐる争いの記録が残されていた。宣長は伊勢松坂の人として、参宮の人々の流れを日々目にしていた。自分の土地の言葉が、中世の参詣の歴史に根ざしていることを確かめた記録である。巡礼の人々を迎える言葉にも、長い信仰の歴史が息づいている。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 大神宮に諸人のまうづる事同じ書に、承平四年九月の御祭云云、参宮人千万、貴賤を論ぜず云云、と有るを見れば、その頃もかかりしなり。そもそも大神宮には、私の幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣ずる事は、なべて苦しからざりしにや。
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