玉勝間 / 四の巻 小野道風が書る古今集
安元二年太上天皇ノ五十、御賀の記に云はく、中宮ノ御方のおくり物に、みちかぜが書きたる古今を奉らせ給ふ。
書き下し
安元二年太上天皇の五十の御賀の記に云わく、中宮の御方のおくり物に、みちかぜが書きたる古今を奉らせ給う。
現代語訳
安元二年(1176年)の太上天皇(後白河院)の五十の御賀の記に言うには、「中宮の御方からの贈り物として、道風(小野道風)が書いた古今集を奉られた」。
解説
小野道風の書いた古今集が、宮中の祝いの贈り物になったことを記す短い一段である。安元二年、後白河院の五十歳の祝いに、中宮の方から道風自筆の古今集が献上された、という記録である。小野道風は平安中期の能書家で、藤原佐理・藤原行成とともに三跡と称され、和様の書の祖とされる。その筆になる古今集は、歌集としても書の手本としても、この上ない宝であった。宣長は評を加えず記事を抜くだけだが、古今集が単に読まれる歌集ではなく、名筆とともに尊ばれ、贈答の品として最高の格を持っていたことがうかがえる。古典は内容だけでなく、誰の手で写されたかによっても価値を持った。書物が物として大切にされた時代の、一場面である。
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 道風朝綱書勅判の事江談抄に云う、天暦の御時、小野道風と江朝綱と、常に手書の相論を成すの時、両人議して曰く、主上の御判を給わりて、互いに勝劣を決すべしと云う。仍りて御判を申し請うの処、主上仰せられて云う、朝綱の書の、道風に劣る事、譬えば道風の朝綱の才に劣るがごとしと云う。
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『玉勝間』七の巻 美材草神同書に云う、小野美材、内裏の文集の御屏風を書き了りて、奥書に、大原居易は古詩の聖、小野美材は今草の神と云う。
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