玉勝間 / 九の巻 もらふと云ふ詞
新撰字鏡に、餬寄食也毛良比波牟と有り、俗言に物をもらふと云ふは、是れなり。これもとは食にのみ云へりし言の、後にひろく何にても云ふ事になれるか、はたもとより食には限らざりし言か、知らず。
書き下し
新撰字鏡に、餬、寄食なり、もらいはむと有り、俗言に物をもらうと云うは、これなり。これもとは食にのみ云えりし言の、後にひろく何にても云う事になれるか、はたもとより食には限らざりし言か、知らず。
現代語訳
『新撰字鏡』に、「餬」は寄食(人のもとに身を寄せて食べさせてもらうこと)であり、和訓は「もらいはむ」とある。世間の言葉で物を「もらう」と言うのは、これである。これはもともと食べ物についてだけ言った言葉が、後に広く何についても言うようになったのか、それとも初めから食べ物に限らなかった言葉なのか、わからない。
解説
日常語「もらう」の古い用例を、平安時代初期の漢和辞書『新撰字鏡』に見つけた段である。「餬」の字に「もらいはむ」という訓が付いており、人に食べさせてもらうことを言っている。宣長は、今の俗語の「もらう」がこれにつながると見たうえで、もとは食べ物に限った言葉が広がったのか、初めから広い意味だったのかは「知らず」と結ぶ。用例が一つしかない段階で、どちらかに決めてしまわない。証拠の及ぶところまで言い、及ばないところは空けておく。身近な俗語にも古い根があると示しつつ、断定を控えるこの書き方は、宣長の言葉の考証によく見られる。わからないと書けることも、学問の誠実さの一つである。
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 はたじね、ざる、もらふ今の俗に、機の織〓あまりの末の糸を、はたじねと云うは、新撰字鏡に、続残纏織の余りなり、志禰糸、とあるこれなり。また竹器に、ざると云う物は、同書に、寄、志太弥、また阿自加、また伊佐留、また笔、穀を盛る竹器なり、伊佐留、など有るこれなり。また物をもらうと云う言も、同じ書に、餬は寄食なり。毛良比波牟とあり。
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『玉勝間』十四の巻 饌饌をつくりととのうるを、俗に料理と云い、それよりうつりて、そのつくりととのえたる饌をさしても、料理と云い、御料理を下さる、結構なる料理など云う、みな饌を云えり。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』十一の巻 いはゆる御所詞同書に、内裏仙洞には、一切の食物に、異名を付けて召さるる事なり。一向存知せざる者は、当座に迷惑すべき者なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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