玉勝間 / 九の巻 裾の長さの事
同書云、寛喜三年五月廿四日、若宮御百日也。今日出仕人人、裾寸法事、內內爲頭中宮亮資賴朝臣奉行、被仰下、大臣八尺、大納言七尺、中納言六尺、參議三位五尺、四位已下四尺。
新字:同書云、寛喜三年五月廿四日、若宮御百日也。今日出仕人人、裾寸法事、内内為頭中宮亮資頼朝臣奉行、被仰下、大臣八尺、大納言七尺、中納言六尺、参議三位五尺、四位已下四尺。
書き下し
同書に云う、寛喜三年五月廿四日、若宮の御百日なり。今日出仕の人々、裾の寸法の事、内々頭中宮亮資頼朝臣を奉行と為して、仰せ下さる、大臣八尺、大納言七尺、中納言六尺、参議・三位五尺、四位已下四尺。
現代語訳
同じ書(『百練抄』)に言う。寛喜三年(1231)五月二十四日は、若宮の御百日の祝いであった。この日出仕する人々の裾の寸法について、内々に蔵人頭で中宮亮の資頼朝臣を奉行として仰せ下された。大臣は八尺、大納言は七尺、中納言は六尺、参議と三位は五尺、四位以下は四尺とする、とある。
解説
若宮の百日の祝いに出仕する公卿たちの、装束の裾の長さを位ごとに定めた記事である。若宮はこの年に生まれた後堀河天皇の皇子で、のちの四条天皇にあたる。ここでいう裾は、束帯の下襲の後ろに長く引く部分のことで、位が高いほど長く引いた。大臣八尺から四位以下四尺まで、一尺ずつ刻まれている。一尺はおよそ三十センチだから、大臣の裾は二メートル半近くになる。宣長は評を加えていないが、装束の寸法のような細部に、朝廷の秩序がどれほど目に見える形で表されていたかを示す資料として書き留めた。有職故実は、こうした具体的な数字の積み重ねによって古い世の姿を明らかにする学問である。
関連する章句
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