玉勝間 / 一の巻 大安殿
天武紀に、天皇御大安殿云云と云へる事、所所に見え、續紀にも多く見えたり。大安殿は、意富夜須美杼能と訓ょべし、即ち大極殿の事なり。又天智紀に、西ノ安殿、天武紀に、向ノ安殿、內ノ安殿、外ノ安殿、舊宮安殿、文武紀に、東ノ安殿なども有る、皆やすみどのなり。やすみは、古き歌に、やすみししわが大きみと詠みて、これ安らけくて天の下を見し給ふ意。見し給ふとは、しろしめす事なり。されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せるなり、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇德天皇の御陵に參りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給ひて、百官にいつかれさせ給ひ云云と云へるは、たまたま古言の殘れりしなるべし。さて皇極紀天武紀に、大極殿を、おほあむどのと訓、天智紀に、西小殿と有るを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の內。安殿を、うちのあむどのと訓ノるなどは、何れもやすみどのと訓しめむために、傍っに安ドノと書たるを見て、誤りて安を音に訓めるひが事なり。又かたはらに晏ノ字を書る所も有る、これもかの安を音に訓む事とひが心得して、あむと訓〓しめむとてなり。
新字:天武紀に、天皇御大安殿云云と云へる事、所所に見え、続紀にも多く見えたり。大安殿は、意富夜須美杼能と訓ょべし、即ち大極殿の事なり。又天智紀に、西ノ安殿、天武紀に、向ノ安殿、内ノ安殿、外ノ安殿、旧宮安殿、文武紀に、東ノ安殿なども有る、皆やすみどのなり。やすみは、古き歌に、やすみししわが大きみと詠みて、これ安らけくて天の下を見し給ふ意。見し給ふとは、しろしめす事なり。されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せるなり、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇徳天皇の御陵に参りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給ひて、百官にいつかれさせ給ひ云云と云へるは、たまたま古言の残れりしなるべし。さて皇極紀天武紀に、大極殿を、おほあむどのと訓、天智紀に、西小殿と有るを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の内。安殿を、うちのあむどのと訓ノるなどは、何れもやすみどのと訓しめむために、傍っに安ドノと書たるを見て、誤りて安を音に訓めるひが事なり。又かたはらに晏ノ字を書る所も有る、これもかの安を音に訓む事とひが心得して、あむと訓〓しめむとてなり。
書き下し
天武紀に、天皇、大安殿に御す云々と云える事、所々に見え、続紀にも多く見えたり。大安殿は、意富夜須美杼能と訓むべし、すなわち大極殿の事なり。また天智紀に、西の安殿、天武紀に、向の安殿、内の安殿、外の安殿、旧宮の安殿、文武紀に、東の安殿なども有る、皆やすみどのなり。やすみは、古き歌に、やすみししわが大きみと詠みて、これ安らけくて天の下を見し給う意。見し給うとは、しろしめす事なり。されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せるなり、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇徳天皇の御陵に参りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給いて、百官にいつかれさせ給い云々と云えるは、たまたま古言の残れりしなるべし。さて皇極紀・天武紀に、大極殿を、おおあむどのと訓み、天智紀に、西小殿と有るを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の内安殿を、うちのあむどのと訓めるなどは、何れもやすみどのと訓ましめむために、傍らに安ドノと書きたるを見て、誤りて安を音に訓めるひが事なり。またかたわらに晏の字を書ける所も有る、これもかの安を音に訓む事とひが心得して、あむと訓ましめむとてなり。
現代語訳
日本書紀の天武紀に「天皇が大安殿におでましになった」などということが所々に見え、続日本紀にも多く見える。大安殿は「おおやすみどの」と読むべきで、つまり大極殿のことである。また天智紀に西の安殿、天武紀に向の安殿・内の安殿・外の安殿・旧宮の安殿、文武紀に東の安殿などとあるのも、みな「やすみどの」である。やすみとは、古い歌に「やすみししわが大君」と詠んでいて、安らかに天下をご覧になるという意味である。ご覧になるとは、お治めになることである。だから天皇のおられる殿をみな「やすみどの」と申したのである。ずっと後の書物ではあるが、西行の『撰集抄』に、崇徳天皇の御陵に参ってその御事を申し述べるところで、「清涼殿・紫宸殿の間にやすみなさって、百官にかしずかれなさった」などと言っているのは、たまたま古語が残っていたのであろう。さて皇極紀・天武紀で大極殿を「おおあむどの」と読み、天智紀に西小殿とあるのを「にしのこあどの」と読み、上に挙げた天武紀の内安殿を「うちのあむどの」と読んでいるのなどは、いずれも「やすみどの」と読ませるために傍らに「安ドノ」と書いてあったのを見て、誤って安の字を音で読んだ間違いである。また傍らに晏の字を書いた所もあるが、これもその安を音で読むものだと誤解して、「あむ」と読ませようとしたものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 大安殿大極殿は、第一の正殿なるが故に、おおやすみどのと云えるを、やがて大安殿とも書かれたるなり。続紀に、大極殿と大安殿とは、別なるが如く聞こゆる所も有れど然らず、同じ事なり。
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『玉勝間』十四の巻 南殿続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
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『玉勝間』九の巻 正堂正寝百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿殿上に於て定め申す、諸道勘え申すと云云、正堂・正寝、何物を指すやの事、正堂は大極殿、正寝は小安殿の由、師安勘え申す、而るに内大臣、正堂は大極殿なり、正寝は小安殿の条、所見無きの由申さる。
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『玉勝間』十四の巻 左右京朱雀ノ路朱雀門大極殿瓦ぶき京都を、左京右京と分けらるること、藤原の宮既に然りと見えて、大宝にいできたる令に、左右京職あり、続紀大宝三年の処にも、左京職云云の事見えたり。又和銅三年正月の処に、皇城門の外朱雀路と見えたり。これいまだ平城にうつり坐さぬさきなり。朱雀門は、既に孝徳天皇の、大化五年の紀に見えたり。又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり。但しそれは当時はただ大やすみ殿と云いて、いまだ大極殿と云う名は無かりしを、後の名をめぐらして記されたるも知りがたし。又斉明天皇の元年の紀に、小墾田に於て宮闕を造り起こし、将に瓦もて覆わんと擬とあるは、ただ沙汰ばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これ始めなるべし。又五位以上及び庶人の屋舎の瓦葺の沙汰も、神亀元年の紀に見えたり。
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『玉勝間』九の巻 朝所朝所を、常にはあいたんところとよむを、中務の内侍日記には、あしたどころと、所々に出でたり。あしたを、音便にあいたんとは云うなるべし、シをイと云うも、ンを添うるも、音便の常なり。
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『玉勝間』十三の巻 平城ノ天皇の御名平城天皇の御諱、はじめには小殿と申せしを、安殿と改め給えり。そのかみすべて皇子たち諸王などの御名、いずれも御乳母の姓をとれる例にて、この小殿と申せしも、続紀卅九の巻に、御乳母安倍小殿の朝臣堺と云うが見えたる、この姓なり。安殿も、この安の字と殿の字をとり給えるなり。さてこは阿伝と字音に読み奉るなり。紀の国の在田の郡は、もと安諦の郡にて、書紀続紀に、阿提郡とも書かれたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田の郡とは改められき。
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