玉勝間 / 四の巻 桜を花と云ふ事
唯だ花と云ひて櫻の事にするは、古今集の頃までは、聞えぬ事なり。契沖ほうしが餘材抄に、委しく云へるが如し。源氏ノ物語若菜ノ上の卷に、梅の事を云ふとて、花のさかりにならべて見ばやと云へる事あり、是れらはまさしく櫻を分て花と云へり。
新字:唯だ花と云ひて桜の事にするは、古今集の頃までは、聞えぬ事なり。契沖ほうしが余材抄に、委しく云へるが如し。源氏ノ物語若菜ノ上の巻に、梅の事を云ふとて、花のさかりにならべて見ばやと云へる事あり、是れらはまさしく桜を分て花と云へり。
書き下し
ただ花と云いて桜の事にするは、古今集の頃までは、聞こえぬ事なり。契沖ほうしが余材抄に、委しく云えるが如し。源氏物語若菜の上の巻に、梅の事を云うとて、花のさかりにならべて見ばやと云える事あり、是れらはまさしく桜を分けて花と云えり。
現代語訳
ただ「花」と言って桜のことにするのは、古今集の頃までは聞かないことである。契沖法師の古今余材抄に詳しく述べているとおりである。源氏物語の若菜上の巻に、梅のことを言うのに「花の盛りに並べて見たいものだ」と言っていることがある。これらはまさしく桜を区別して「花」と言っている。
解説
「花」と言えば桜を指す、という言い方がいつ定まったかを考えた一段である。宣長は、古今集の頃まではただ「花」と言って桜を意味することはなかった、という契沖の古今余材抄の説に従う。そして源氏物語の若菜上の巻で、梅のことを話しながら「花のさかりにならべて見ばや」と言う例を挙げ、ここでは梅と分けて桜を「花」と呼んでいる、と指摘する。つまり源氏物語の頃には、花すなわち桜という言い方ができていたことになる。宣長は桜をこよなく愛し、「しき島のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と詠んだ人である。今は当然とされる「花は桜」も、いつから言われたかを文献で確かめる。先学契沖の説を踏まえ、そこに用例を加えてゆくのも宣長の学び方である。
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 花のさだめ花はさくら。桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐうべき物も無く、うき世のものとも思われず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり。大かた山ざくらと云う中にも、しなじなの有りて、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかわれる処有りて、またく同じきは無きようなり。また今の世に、桐がやつ八重一重など云うも、ようかわりて、いとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、あおやかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空清くはれたる日、日影のさすかたより見たるは、においこよなくて、おなじ花とも覚えぬまでなん。朝日はさらなり、夕ばえも。梅は紅梅、ひらけさしたる程ぞ、いとめでたきを、盛りになるままに、ようようしらけゆきて、見所無くなるこそ、いとくちおしけれ。さくらの咲ける頃までも、散る事知らで、むげに匂い無く、ねびれしぼみて、残りたるを見れば、げに有りて世の中は、何事も皆かくこそと、見る春ごとに、思い知らるかし。白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり。
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『玉勝間』五の巻 歌の道 さくら花しき島の道又歌の道と云う事、後の世には常なれど、古今集の序を見るに、かの御世や歌のこころをしろしめしたりけむ云云、ここに古えの事をも、歌のこころをも、知れる人云云、人まろなくなりにたれど、歌のこととどまれるかな、など有るは、後の世の文なりせば、必ず歌の道とぞ云わましを、斯く歌のこころ、歌のことなど云いて、道とは云わず。真字序には、斯道とも吾道とも有るを、かな序には、すべて歌に道と云える事見えず。又桜の花を、さくら花と云うこと、これも後の世にはつねなれど、古今集には、詞書には、いずこもいずこも、さくらの花と、の文字をそえてのみ云いて、ただにさくらばなと云える事は、歌こそあれ、詞には一つも見えず。おおかたこれらになずらえて、歌詠まむにも、文書かむにも、古えと後の世とのけじめ、又漢文と御国文とのけじめ有ること、又歌と詞とかわれる事もあるなどを、いささかの事にも、心をとどめて、わきまうべきわざぞ。こは古今集を読むとて、ふと心附けるままに、おどろかし置くなり。
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