玉勝間 / 七の巻 ある人の言
櫻の花ざかりに、歌詠む友だち、これかれかい連ねて、そこかしこと、見ありきける、歸るさに、見し花どもの事、語りつつ來るに、ひとりが云ふやう、まろは、歌詠まむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有けむ、こまやかにも見ずなりぬと云へるは、をこがましきやうなれど、まことは誰れも然も有る事と、をかしくぞ聞し。
新字:桜の花ざかりに、歌詠む友だち、これかれかい連ねて、そこかしこと、見ありきける、帰るさに、見し花どもの事、語りつつ来るに、ひとりが云ふやう、まろは、歌詠まむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有けむ、こまやかにも見ずなりぬと云へるは、をこがましきやうなれど、まことは誰れも然も有る事と、をかしくぞ聞し。
書き下し
桜の花ざかりに、歌詠む友だち、これかれかい連ねて、そこかしこと、見ありきける、帰るさに、見し花どもの事、語りつつ来るに、ひとりが云うよう、まろは、歌詠まむと、思いめぐらしける程に、きょうの花は、いかに有りけむ、こまやかにも見ずなりぬと云えるは、おこがましきようなれど、まことは誰れも然も有る事と、おかしくぞ聞きし。
現代語訳
桜の花盛りに、歌を詠む友だちが何人も連れ立って、あちらこちらと花を見て歩いた。その帰り道に、見てきた花のことを語り合いながら来ると、一人が言うには、「私は歌を詠もうとあれこれ考えているうちに、今日の花がどんなふうだったか、よく見ないで終わってしまった」。それは愚かしいようだけれども、本当は誰でもそういうことがあるものだと、おもしろく聞いた。
解説
花見の帰り道に聞いた、ある歌仲間のひとことを記した短い段である。歌を詠もうと頭をひねっているうちに、肝心の花をろくに見ずに終わってしまった、という。宣長はそれを愚かしく聞こえるが、実は誰にでもあることだと面白がる。歌は花を見て心が動いてこそ生まれるはずなのに、歌を作ることが目的になると、目の前の花が見えなくなる。宣長は「もののあはれを知る」ことを歌の本質とし、物事に触れて心が動くことを重んじた。その立場からすれば、この失敗談は歌の本末転倒をよく表している。今の私たちも、写真を撮ることに夢中になって景色そのものを味わい損ねたり、記録や発信のために体験がおろそかになったりする。表現しようとする心が、感じる心を押しのけていないか。軽い笑い話の中に、鋭い問いが含まれている。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 歌の道 さくら花しき島の道又歌の道と云う事、後の世には常なれど、古今集の序を見るに、かの御世や歌のこころをしろしめしたりけむ云云、ここに古えの事をも、歌のこころをも、知れる人云云、人まろなくなりにたれど、歌のこととどまれるかな、など有るは、後の世の文なりせば、必ず歌の道とぞ云わましを、斯く歌のこころ、歌のことなど云いて、道とは云わず。真字序には、斯道とも吾道とも有るを、かな序には、すべて歌に道と云える事見えず。又桜の花を、さくら花と云うこと、これも後の世にはつねなれど、古今集には、詞書には、いずこもいずこも、さくらの花と、の文字をそえてのみ云いて、ただにさくらばなと云える事は、歌こそあれ、詞には一つも見えず。おおかたこれらになずらえて、歌詠まむにも、文書かむにも、古えと後の世とのけじめ、又漢文と御国文とのけじめ有ること、又歌と詞とかわれる事もあるなどを、いささかの事にも、心をとどめて、わきまうべきわざぞ。こは古今集を読むとて、ふと心附けるままに、おどろかし置くなり。
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