玉勝間 / 八の巻 用と云ふことば
今の世に、御用、用事、入用、急用など、其外爲るわざの有るを、用の有ると云ふたぐひ、すべて用と云ふ詞を、廣くつかふ。これは要かと思へば、さもあらざるにや。菅原ノ贈太政大臣の、書齋ノ記に、又朋友之中、頗有要須之人、適依有用、入在簾中、更科ノ日記に、さるべきよう有て、秋ごろ和泉にくだるに云云、是れらは、もはら今の世に云ふ用あるなり。後撰集雜ノ二に、枇杷ノ左大臣よう侍りて、楢の葉をもとめ侍ければ云云、赤染衛門集に、つかふべきよう有て、くれをこひたりしに云云、これらは、もちふべき事有てと云ふ意なれば、用ノ字にあたれり。台記に、依有急要、退下宿廬、これは要ノ字は書かれたれど、いまの世に云ふ急用なり。
新字:今の世に、御用、用事、入用、急用など、其外為るわざの有るを、用の有ると云ふたぐひ、すべて用と云ふ詞を、広くつかふ。これは要かと思へば、さもあらざるにや。菅原ノ贈太政大臣の、書斎ノ記に、又朋友之中、頗有要須之人、適依有用、入在簾中、更科ノ日記に、さるべきよう有て、秋ごろ和泉にくだるに云云、是れらは、もはら今の世に云ふ用あるなり。後撰集雑ノ二に、枇杷ノ左大臣よう侍りて、楢の葉をもとめ侍ければ云云、赤染衛門集に、つかふべきよう有て、くれをこひたりしに云云、これらは、もちふべき事有てと云ふ意なれば、用ノ字にあたれり。台記に、依有急要、退下宿廬、これは要ノ字は書かれたれど、いまの世に云ふ急用なり。
書き下し
今の世に、御用、用事、入用、急用など、其外為るわざの有るを、用の有ると云うたぐい、すべて用と云う詞を、広くつかう。これは要かと思えば、さもあらざるにや。菅原の贈太政大臣の、書斎の記に、又朋友の中、頗る要須の人有り、適たま用有るに依りて、入りて簾中に在り、更科の日記に、さるべきよう有りて、秋ごろ和泉にくだるに云云、是れらは、もはら今の世に云う用あるなり。後撰集雑の二に、枇杷の左大臣よう侍りて、楢の葉をもとめ侍りければ云云、赤染衛門集に、つかうべきよう有りて、くれをこいたりしに云云、これらは、もちうべき事有りてと云う意なれば、用の字にあたれり。台記に、急要有るに依りて、宿廬に退下す、これは要の字は書かれたれど、いまの世に云う急用なり。
現代語訳
今の世に、御用・用事・入用・急用など、そのほかすべきことがあるのを「用がある」と言う類で、すべて「用」という言葉を広く使う。これは「要」かと思うと、そうでもないのであろうか。菅原贈太政大臣(菅原道真)の「書斎記」に「また友人の中に、たいそう要須(必要)な人がいて、たまたま用があって、入って簾の中にいる」、更級日記に「しかるべき用があって、秋ごろ和泉に下る時に云々」とあるのは、まったく今の世に言う「用がある」である。後撰集の雑の部二に「枇杷左大臣が用がございまして、楢の葉をお求めになったので云々」、赤染衛門集に「使うべき用があって、くれ(板材)を求めたところ云々」とあるのは、用いるべき事があって、という意味であるから、「用」の字に当たっている。台記に「急要があったので、宿廬に退出した」とあるのは、「要」の字が書かれているが、今の世に言う「急用」である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』八の巻 いると云ふ詞俗の言に、銀がいる、銭がいる、或はいくらばかりいるなど云う。此いると云う詞、小右記に供米千石ばかり入るべきか、と見え、源氏物語に、明石の入道の言に、かなぶみ見給うるは、目のいとまいりて云云と有り。これ俗にひまがいると云う事なり。その頃より早く云えることなりけり。もろこしの近き世の俗語に、没の字を用いる、此意と同じことなり。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
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『玉勝間』八の巻 用捨ゆるす事を、俗言に、用捨すると云うは、白氏文集の中の文に、若し命に違い迷いを執らば、則ち周く容捨有り、と云える、これ全く俗に云うと同じ意なり。此字なるべし、用の字を書くは、用うると捨つるとを云う用捨と、混いつるなり。
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『玉勝間』八の巻 まにあはぬ又間にあわぬと云う事も、是れに見えたり。近き世の言には有らず。
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『玉勝間』九の巻 当の字のつかひざま又此を今のと云ふ事当の字のつかいよう、皇国にては、古くより、多く此と云う意、又今と云う意に用いたり。今の世も然り。当国・当所・当時・当年などのたぐい皆、此国・此所・今時・今年と云う意なり。これ字の義にはかなわず。当の字は、其と云うにあたりて、当国・当所などは、字の意にては、其国・其所と云うこと、当時・当年などは、其時・其年と云う事なり。さる故に日本紀には、ソノと訓めるところ有るなり。もろこしにては、此と云い今と云うことに、本州・本郡・本年・本月など云う、本の字のつかいざま、皇国にて、当某と云うにあたれり。但しもろこしにて、本某と云う事も、いたく古き書には見えず、中昔よりの事なるべし。又此の寺と云う事を、漢ように、本寺と書きては、いわゆる本寺末寺の本寺にまがえば、やむことえず漢文にも、当寺と書くたぐい有るなり。さて又仏ぶみには、此と云うことを、今と云えることも多し。此経を今経、此宗を今家など云える類いなり。契沖が歌の注などに、此歌はと云うことを、今の歌はと云えるたぐい、常に多きは、仏書より出でたる詞なり。この今と云う言、仏ぶみより外には、おさおさ見及ばぬ事なり。
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