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玉勝間 / 八の巻 いると云ふ詞

俗の言に、銀がいる、錢がいる、或はいくらばかりいるなど云ふ。此いると云ふ詞、小右記に供米千石許可入歟と見え、源氏物語に、明石ノ入道の言に、かなぶみ見給ふるは、目のいとまいりて云云と有り。これ俗にひまがいると云ふ事なり。その頃より早く云へることなりけり。もろこしの近き世の俗語に、沒ノ字を用る、此意と同じことなり。

新字:俗の言に、銀がいる、銭がいる、或はいくらばかりいるなど云ふ。此いると云ふ詞、小右記に供米千石許可入歟と見え、源氏物語に、明石ノ入道の言に、かなぶみ見給ふるは、目のいとまいりて云云と有り。これ俗にひまがいると云ふ事なり。その頃より早く云へることなりけり。もろこしの近き世の俗語に、没ノ字を用る、此意と同じことなり。

書き下し

俗の言に、銀がいる、銭がいる、或はいくらばかりいるなど云う。此いると云う詞、小右記に供米千石ばかり入るべきか、と見え、源氏物語に、明石の入道の言に、かなぶみ見給うるは、目のいとまいりて云云と有り。これ俗にひまがいると云う事なり。その頃より早く云えることなりけり。もろこしの近き世の俗語に、没の字を用いる、此意と同じことなり。

現代語訳

俗語で「銀がいる」「銭がいる」、あるいは「いくらほどいる」などと言う。この「いる」という言葉は、小右記に「供米が千石ほど要るであろうか」と見え、源氏物語で明石の入道の言葉に「仮名の文を拝見するのは、目がたいそう暇を要しまして云々」とある。これは俗に「暇がいる」ということである。その頃から早くも言っていたことなのであった。中国の近世の俗語に「没」の字を用いるのも、この意味と同じことである。

解説

必要とする意の「いる(要る)」という語が、平安時代にすでに使われていたことを示した段である。江戸の町では「銀がいる」「銭がいる」と日常的に言ったが、宣長は小右記に「千石ばかり入るべきか」とあるのを見つけ、同じ意の「いる」が千年近く前の記録にあることを確かめた。源氏物語の明石の入道の言葉にある「目のいとまいりて」も、仮名の文を読むのに目が暇を要する、つまり時間がかかるという意で、俗に「暇がいる」と言うのと同じだという。今日「要る」と書くのは後の字の当て方で、もとは「入る」と書き、物や手間がそこに入り込むことを言ったと考えられる。毎日口にする「要る」にも、平安の貴族が使った言葉の流れが続いていることを教える段である。

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