玉勝間 / 八の巻 用捨
ゆるす事を、俗言に、用捨すると云ふは、白氏文集の中の文に、若違命執迷則周有容捨と云へる、これ全く俗に云ふと同じ意なり。此字なるべし、用ノ字を書くは、用ふると捨るとを云ふ用捨と、混ひつるなり。
書き下し
ゆるす事を、俗言に、用捨すると云うは、白氏文集の中の文に、若し命に違い迷いを執らば、則ち周く容捨有り、と云える、これ全く俗に云うと同じ意なり。此字なるべし、用の字を書くは、用うると捨つるとを云う用捨と、混いつるなり。
現代語訳
許すことを俗語で「ようしゃする」と言うのは、白氏文集の中の文に「もし命令に背き、迷いに固執しても、すべて容捨(容赦)がある」と言っている「容捨」が、まったく俗に言うのと同じ意味である。この字であるべきだろう。「用」の字を書くのは、用いることと捨てることとをいう「用捨」と混同したのである。
解説
「ようしゃ」の正しい字を考えた段である。人を許す意の「ようしゃ」は、江戸の頃「用捨」と書かれることが多かったが、宣長は唐の白居易の文集に「容捨」とあり、意味も俗に言う許すと同じだとして、こちらが本来の字だろうとする。「用捨」は本来、用いるか捨てるか、取捨の意であり、音が同じために混同されたのだという。今日では「容赦」と書くのが普通で、「容」の字を本来とした宣長の見立ては今の表記とも通じている。白氏文集は平安時代から日本で最も広く読まれた漢詩文集であり、宣長はそこに俗語の字の典拠を見つけた。漢意を批判した宣長だが、言葉の由来を探るためには漢籍を丹念に読み、俗語の字の当て方の誤りも正した。日常の言葉の字遣いにも由来の筋道があることを教える一段である。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 用と云ふことば今の世に、御用、用事、入用、急用など、其外為るわざの有るを、用の有ると云うたぐい、すべて用と云う詞を、広くつかう。これは要かと思えば、さもあらざるにや。菅原の贈太政大臣の、書斎の記に、又朋友の中、頗る要須の人有り、適たま用有るに依りて、入りて簾中に在り、更科の日記に、さるべきよう有りて、秋ごろ和泉にくだるに云云、是れらは、もはら今の世に云う用あるなり。後撰集雑の二に、枇杷の左大臣よう侍りて、楢の葉をもとめ侍りければ云云、赤染衛門集に、つかうべきよう有りて、くれをこいたりしに云云、これらは、もちうべき事有りてと云う意なれば、用の字にあたれり。台記に、急要有るに依りて、宿廬に退下す、これは要の字は書かれたれど、いまの世に云う急用なり。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』八の巻 咄今の世に、物語を、はなしと云いて、咄の字を書けり、説文に咄は相謂うなりとしるし、文選なる、張景陽の詠史の詩に、咄此の蝉冕の客、君が紳に宜しく書かるべし、と有れば、字はかなえるを、はなしと云う言は、いかなる意にか。もしは放しか。
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『玉勝間』八の巻 しるよしして平の維章と云える儒者の書ける和学弁と云うものに、伊勢物語に、春日の里にしるよししてと書けるは、知の字を知らぬ作者と見えたり、異邦の書に、知杭州、知袁州など書けるは、知の字、つかさどると訓む、此方の人は、文字に傍及と云うこと有るを知らぬ故、物によりて、読法の変ずるを知らず、と云えるは、知字のつかいざまをのみ知りて、志流と云う言に、傍及の有ることを知らざる、ひが事なり。かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代より云える言にて、さらに知の字の傍及を知らずして云える詞にはあらざるをや。なお志流と云う言は、此外にも、傍及の意有ることなり。すべて皇国の言の意をば、よくも知らで、唯だ漢字の義をのみ捉えて、みだりなる事云う、このたぐい、儒者のつねなり。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』八の巻 いると云ふ詞俗の言に、銀がいる、銭がいる、或はいくらばかりいるなど云う。此いると云う詞、小右記に供米千石ばかり入るべきか、と見え、源氏物語に、明石の入道の言に、かなぶみ見給うるは、目のいとまいりて云云と有り。これ俗にひまがいると云う事なり。その頃より早く云えることなりけり。もろこしの近き世の俗語に、没の字を用いる、此意と同じことなり。
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