玉勝間 / 八の巻 癩病をかたゐと云ふこと
或る人のいはく。俗に癩病をかたゐと云ふは、害大の字なり、癩病一名を害大風と云ふ、證治要決に見えたりと云へり。すべて此たぐひの說は、うち聞くには、うべうべしく聞ゆれども、よく思へば、皆あたらぬ事なり。いかにと云ふに、すべて俗語は、書を考へて云ヒ出る物にはあらず、字音の言の多きも、おほくは佛ぶみの語にて、これ昔ほうしの常に云ふを、聞なれたるより、移れる物なり。佛語ならぬも、近き書に多く見えて、聞なれたる言こそあれ、遠きからぶみに、いと稀れに見えたる言などをば、世の人は、いかにして知りて云ひ出む。たまたま似たることを見つくれば、ゆくりなくそれより出たりと思ふはひがことなり。癩病人をかたゐと云ふは、乞兒より轉れる言なり。そはいとことなるが如くなれど、人をいやしめにくみて、かたゐと云へる事あれば、それより出たるなり。すべて世の中の言は、意はさまざまにうつりきぬること多きぞかし。
新字:或る人のいはく。俗に癩病をかたゐと云ふは、害大の字なり、癩病一名を害大風と云ふ、証治要決に見えたりと云へり。すべて此たぐひの説は、うち聞くには、うべうべしく聞ゆれども、よく思へば、皆あたらぬ事なり。いかにと云ふに、すべて俗語は、書を考へて云ヒ出る物にはあらず、字音の言の多きも、おほくは仏ぶみの語にて、これ昔ほうしの常に云ふを、聞なれたるより、移れる物なり。仏語ならぬも、近き書に多く見えて、聞なれたる言こそあれ、遠きからぶみに、いと稀れに見えたる言などをば、世の人は、いかにして知りて云ひ出む。たまたま似たることを見つくれば、ゆくりなくそれより出たりと思ふはひがことなり。癩病人をかたゐと云ふは、乞児より転れる言なり。そはいとことなるが如くなれど、人をいやしめにくみて、かたゐと云へる事あれば、それより出たるなり。すべて世の中の言は、意はさまざまにうつりきぬること多きぞかし。
書き下し
或る人の曰わく。俗に癩病をかたいと云うは、害大の字なり、癩病一名を害大風と云う、証治要決に見えたりと云えり。すべて此たぐいの説は、うち聞くには、うべうべしく聞ゆれども、よく思えば、皆あたらぬ事なり。いかにと云うに、すべて俗語は、書を考えて云い出る物にはあらず、字音の言の多きも、おおくは仏ぶみの語にて、これ昔ほうしの常に云うを、聞なれたるより、移れる物なり。仏語ならぬも、近き書に多く見えて、聞なれたる言こそあれ、遠きからぶみに、いと稀れに見えたる言などをば、世の人は、いかにして知りて云い出む。たまたま似たることを見つくれば、ゆくりなくそれより出たりと思うはひがことなり。癩病人をかたいと云うは、乞児より転れる言なり。そはいとことなるが如くなれど、人をいやしめにくみて、かたいと云える事あれば、それより出たるなり。すべて世の中の言は、意はさまざまにうつりきぬること多きぞかし。
現代語訳
ある人が言うには、「俗に癩病を『かたい』と言うのは『害大』の字である。癩病の別名を『害大風』と言うことが、証治要決に見える」と言った。およそこの類の説は、ちょっと聞くともっともらしく聞こえるが、よく考えると、みな当たらないことである。なぜかというと、およそ俗語は書物を調べて言い出すものではない。字音の言葉が多いのも、多くは仏典の語であって、これは昔、法師がいつも言っているのを聞き慣れたことから移ったものである。仏語でないものも、身近な書物に多く見えて聞き慣れた言葉ならばともかく、遠い漢籍にごくまれに見える言葉などを、世の人がどうして知って言い出すだろうか。たまたま似たことを見つけると、無造作にそこから出たと思うのは誤りである。癩病の人を「かたい」と言うのは、「乞児(かたい、物乞い)」から転じた言葉である。それはたいそう違うように見えるが、人をいやしめ憎んで「かたい」と言ったことがあるので、そこから出たのである。すべて世の中の言葉は、意味がさまざまに移ってきたことが多いのだ。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』三の巻 とかたと云ふ詞童蒙抄に、山家の冬の夜と云うこころを、経信卿、「山里は夜床さえつつ明にけりとかたぞかねの音のすなるは、これいずかたぞと云うべきを、とかたぞと詠めり、いかがとあり。今の世の言に、いずくを、どこと云い、いずれをどれ、いずちまたいずかたを、どちと云うは、此とかたのとにやあらん。
-
『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
-
『玉勝間』八の巻 だるし手足のたゆきを、俗言に、だるいと云う、伊勢などにては、かいだるいと云えり。此言曾丹集に、わぎもこが今朝の朝菜にひかされてせなさえあまりかいだゆきかな、伊勢が集に、よもすがら物思うときのつらずえはかいなたるさぞ知られざりける。此歌夫木抄には、三四の句、手枕はかいだるさこそと有り。
-
『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
-
『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
-
『玉勝間』十四の巻 はやる時ありて世に盛んにものする事を、俗言にはやると云う。疫病のはやる、医師のはやるなど、万ずの物にも、事にも云えり。この言中昔の書にも見えて、抄出し置きたり。それは今時に云うとはいささか心ばえ変わりて聞こゆ。その人のはやり給いし時と有り。これはただ時にあいて栄え給いし時と云う事なり。今医師などのはやると云うは、その産業の盛んに用いらるるを云うを、かれはただその身の栄えを云えるなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る