玉勝間 / 八の巻 しるよしして
平維章と云へる儒者の書ける和學辨と云ふものに、伊勢物語に、春日の里にしるよししてと書けるは、知の字を知らぬ作者と見えたり、異邦の書に、知杭州、知袁州など書るは、知の字、つかさどると訓む、此方の人は、文字に傍及と云ふこと有るを知らぬ故、物によりて、讀法の變ずるを知らず、と云へるは、知字のつかひざまをのみ知りて、志流と云ふ言に、傍及の有ることを知らざる、ひが事なり。かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代より云へる言にて、さらに知ノ字の傍及を知らずして云へる詞にはあらざるをや。なほ志流と云ふ言は、此外にも、傍及の意有ることなり。すべて皇國の言の意をば、よくも知らで、唯だ漢字の義をのみ捉へて、みだりなる事云ふ、このたぐひ、儒者のつねなり。
新字:平維章と云へる儒者の書ける和学弁と云ふものに、伊勢物語に、春日の里にしるよししてと書けるは、知の字を知らぬ作者と見えたり、異邦の書に、知杭州、知袁州など書るは、知の字、つかさどると訓む、此方の人は、文字に傍及と云ふこと有るを知らぬ故、物によりて、読法の変ずるを知らず、と云へるは、知字のつかひざまをのみ知りて、志流と云ふ言に、傍及の有ることを知らざる、ひが事なり。かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代より云へる言にて、さらに知ノ字の傍及を知らずして云へる詞にはあらざるをや。なほ志流と云ふ言は、此外にも、傍及の意有ることなり。すべて皇国の言の意をば、よくも知らで、唯だ漢字の義をのみ捉へて、みだりなる事云ふ、このたぐひ、儒者のつねなり。
書き下し
平の維章と云える儒者の書ける和学弁と云うものに、伊勢物語に、春日の里にしるよししてと書けるは、知の字を知らぬ作者と見えたり、異邦の書に、知杭州、知袁州など書けるは、知の字、つかさどると訓む、此方の人は、文字に傍及と云うこと有るを知らぬ故、物によりて、読法の変ずるを知らず、と云えるは、知字のつかいざまをのみ知りて、志流と云う言に、傍及の有ることを知らざる、ひが事なり。かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代より云える言にて、さらに知の字の傍及を知らずして云える詞にはあらざるをや。なお志流と云う言は、此外にも、傍及の意有ることなり。すべて皇国の言の意をば、よくも知らで、唯だ漢字の義をのみ捉えて、みだりなる事云う、このたぐい、儒者のつねなり。
現代語訳
平維章という儒者の書いた和学弁というものに、「伊勢物語に『春日の里にしるよしして』と書いたのは、『知』の字を知らない作者と見える。外国の書物に『知杭州』『知袁州』などと書くのは、『知』の字を『つかさどる』と訓むのである。こちらの国の人は、文字に傍及(派生の意味)ということがあるのを知らないので、場合によって読み方が変わることを知らない」と言っているのは、「知」の字の使い方ばかりを知って、「しる」という和語に派生の意味があることを知らない誤りである。あの「しるよし」は、古語に天皇が「天の下しろしめす」などと申し、そのほかにも上代から言ってきた言葉であって、まったく「知」の字の派生の意味を知らずに言った言葉ではないのだ。なお「しる」という言葉は、このほかにも派生の意味があるのである。すべて皇国の言葉の意味をよく知らずに、ただ漢字の意味だけを捉えてでたらめなことを言う、この類は儒者の常である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 いせ物語真名本の事伊勢物語に、真名本と云う本あり。万葉の書きざまにならいて、真字して書きたる物なり。六条の宮の御撰と、はじめにあげたれば、その親王の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ偽りにて、後の物なり。まずすべての字のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ事のみぞ多かる。そが中に、闇うを苦労、指之血を及後などように書けるは、たわぶれ書きにて、万葉にもさるたぐい有り。又東を熱間、云云にけりを迯利など書けるも、清濁こそたがえれ、猶ゆるさるべきを、なんと云う辞に、何の字を用い、ぞに社、とに諾の字を用いたるたぐい、いと心得ず。然のみならず、「思へる」を思恵流、「給へ」を給江、又「ここへ」「かしこへ」などの、「へ」をも、みな江と書き、身をも、これをやなどの、「を」「をや」と云う辞を、面親と書き、忘を者摺と書けるなど、これらの仮字は、今の世とても、歌詠む程の者などは、おさおさ誤る事無きをだに、斯く誤れるは、むげに物書くようをもわきまえ知らぬ、えせ者のしわざと見えて、真字はすべてとり難きものなり。然はあれども、詞は、世のつねの仮字本とくらべて考うるに、互いに善き悪しきところ有りて、かな本の悪しきに、この本の善きも、すくなからず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つむかし男久しう云云、真名本に、云えりければの下に、女とあり。むかし女の、あだなる男の云云、女のの、の文字、ひが事なり。すべてのちょう辞は、心得有りて、おくべき所と、必ず置くまじき所との有る事なるを、これはさるわきまえをも知らぬ、後の人の、何心も無く加えたるなるべし。真名本に、女のと云う事無し。それも女と云う言足らず。むかし男、女のまだ世へずと云云、このくだり詞ととのわず。物聞えたるを、後に聞きて、などこそ有るべけれ。
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『玉勝間』五の巻 またいせ物語の真字本の仮字の、いとみだりがわしきは、誤りて然るには有らじ。かなづかいと云う事を、信ぜずして、かかわるまじき事を、知らしめむとて、殊更にみだりてぞ、すさび書きつらん、と云う人も有り。さるまじきにも有らず。されど若しさも有らむには、いよいよおかしからぬものなり。その故は、すべて仮字づかいに心して、正さむとするは、すでに乱れての後の世の事なるに、又それをうけずして、かかわるまじき事にせんは、すでに正すわざあるがうえの事なれば、又いよいよ後の世の事なればなり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物語真名本の事そを思えば、これも昔の一つの本なりしを、後に真名には、書きなしたるにぞ有るべき。されば今も、一本には備うべきものなり。然るにいといと心得ぬ事は、わが縣居の大人の、この物語を解かれたるには、世のつねの仮字本をば、今本と云いて、ひたぶるにわろしとして、この真名本をしも、古本と云いて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用い、ともすればこのつたなき真字を、物の証にさえ引かれたるは、いかなる事にかあらん。さばかり古えの仮字の事を、つねに云わるるにも似ず、この本の、さばかり仮字のいたく乱れて、世につたなきなどをも、いかに見られけむ、かえすがえす心得ぬ事ぞかし。さて又近きころ、或る人の出だせる、旧本と云うなる、真名の本も一つ有り。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京に成りての世の人の、及びがたき真字の書きざまなる所多し。さればこれもまことの古き本には有らず、やがて出だせる人の、みずからのしわざにぞ有りける。然か云う故は、まず今の京となりての書どもは、すべて仮字の清濁は、おさおさ差別無く用いたるを、この本は、ことごとく清濁を分け分けて、みだりならず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ女はを、嫗はおの仮字にて、分かるるなり。又つけると云う詞もいかが。真名本に、世営と書けり。よこころあると訓むべし。色好む心の有る老女なり。あいえてしも、同じ本に、あい見てしと有るよろし。その次の詞も、かの本よろし。出でたつけしきは、男のなさけ有りて、嫗のがりゆかむと思いて、出でたつなり。いずくなりけん、けんと云う詞いかが。いずくなるらんと、など有るべきにや。もし又けんをたすけて云わば、物語の地の詞として、いずくにての事なりけんと見るべし。昔男いせの国なりける女云云、真字本に、女をと有るよろし。むかしそこには云云、真字本に、昔男と有り。むかし男、いせの国にいていきて云云、こは本は、いせの国なる女に、京にいていきて云云、と有りしが、二文字の重なれるによりて、京にと云う事の、後に落ちたるなり。次なる歌ども、必ず伊勢なる女とこそ聞えたれ。「いわまより云云、この歌の四の句、解き得たる人無し。しおいしおみちは、とまれかくまれと云う意なるを、海の詞にて云えるのみなり。今はともかくもあれ、末ついにはかい有りて、逢う事も有らんと云えるなり。きょうの御わざを題にての、きょうのは、その日のと有るべき言なり。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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