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玉勝間 / 五の巻 いせ物語真名本の事

そを思へば、これも昔の一つの本なりしを、後に眞名には、書キなしたるにぞ有べき。されば今も、一本には備ふべきものなり。然るにいといと心得ぬ事は、わが縣居ノ大人の、此物語を解れたるには、世のつねの假字本をば、今本と云ひて、ひたふるにわろしとして、此眞名本をしも、古本と云ひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき眞字を、物の證にさへ引れたるは、いかなる事にかあらん。さばかり古、の假字の事を、つねに云はるるにも似ず、此本の、さばかり假字のいたく亂れて、世につたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすがへす心得ぬ事ぞかし。さて又近きころ、或る人の出せる、舊本と云ふなる、眞名の本も一つ有ッ。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京に成りての世の人の、及びがたき眞字の書きざまなる所多し。さればこれもまことの古き本には有らず、やがて出せる人の、みづからのしわざにぞ有ける。然か云ふ故は、まづ今の京となりての書どもは、すべて假字の清濁は、をさをさ差別無く用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分々て、みだりならず。

新字:そを思へば、これも昔の一つの本なりしを、後に真名には、書キなしたるにぞ有べき。されば今も、一本には備ふべきものなり。然るにいといと心得ぬ事は、わが県居ノ大人の、此物語を解れたるには、世のつねの仮字本をば、今本と云ひて、ひたふるにわろしとして、此真名本をしも、古本と云ひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき真字を、物の証にさへ引れたるは、いかなる事にかあらん。さばかり古、の仮字の事を、つねに云はるるにも似ず、此本の、さばかり仮字のいたく乱れて、世につたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすがへす心得ぬ事ぞかし。さて又近きころ、或る人の出せる、旧本と云ふなる、真名の本も一つ有ッ。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京に成りての世の人の、及びがたき真字の書きざまなる所多し。さればこれもまことの古き本には有らず、やがて出せる人の、みづからのしわざにぞ有ける。然か云ふ故は、まづ今の京となりての書どもは、すべて仮字の清濁は、をさをさ差別無く用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分々て、みだりならず。

書き下し

そを思えば、これも昔の一つの本なりしを、後に真名には、書きなしたるにぞ有るべき。されば今も、一本には備うべきものなり。然るにいといと心得ぬ事は、わが縣居の大人の、この物語を解かれたるには、世のつねの仮字本をば、今本と云いて、ひたぶるにわろしとして、この真名本をしも、古本と云いて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用い、ともすればこのつたなき真字を、物の証にさえ引かれたるは、いかなる事にかあらん。さばかり古えの仮字の事を、つねに云わるるにも似ず、この本の、さばかり仮字のいたく乱れて、世につたなきなどをも、いかに見られけむ、かえすがえす心得ぬ事ぞかし。さて又近きころ、或る人の出だせる、旧本と云うなる、真名の本も一つ有り。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京に成りての世の人の、及びがたき真字の書きざまなる所多し。さればこれもまことの古き本には有らず、やがて出だせる人の、みずからのしわざにぞ有りける。然か云う故は、まず今の京となりての書どもは、すべて仮字の清濁は、おさおさ差別無く用いたるを、この本は、ことごとく清濁を分け分けて、みだりならず。

現代語訳

それを考えると、これも昔の一つの本であったのを、後に漢字で書き直したものなのであろう。だから今でも、異本の一つとしては備えておくべきものである。ところがまったく納得がいかないのは、わが縣居の大人(賀茂真淵)がこの物語を注釈されたものでは、世間ふつうの仮名本を「今本」と呼んでひたすら悪いとし、この真名本こそを「古本」と呼んで大げさにほめ、すべて良いとして用い、ともするとこの拙い漢字表記を物事の証拠にまで引いておられることで、これはどうしたことであろうか。あれほど古の仮名遣いのことを常に言っておられるのにも似ず、この本がこれほど仮名遣いがひどく乱れていて、まことに拙いことなどを、どうご覧になったのだろうか。返す返すも納得のいかないことである。さてまた近ごろ、ある人が世に出した「旧本」という真名の本も一つある。それはあのもとの真名本とは比べものにならないほど優れていて、おおよそ今の京(平安京)になってからの世の人には及びがたい漢字の書きぶりのところが多い。だからこれも本当の古い本ではなく、ほかならぬ世に出した人自身のしわざなのである。そう言う理由は、まず平安京になってからの書物は、どれも仮名の清濁をほとんど区別せずに用いているのに、この本はことごとく清濁を書き分けていて、乱れがないからである。

解説

真名本論の第二部で、宣長は師の賀茂真淵を正面から批判する。真淵は『伊勢物語古意』で、流布する仮名本を今本と呼んで退け、真名本を古本と呼んで尊び、その拙い漢字表記を証拠にまで引いた。古い仮名遣いの大切さを常に説いた師が、仮名遣いの乱れきった本をなぜ見抜けなかったのか、と宣長は返す返すも不審がる。師の説にこだわるなと弟子に言い置いた宣長の姿勢が、ここで実地に示されている。後半では、近ごろ出た別の真名本「旧本」を取り上げる。こちらは出来が良すぎて、平安の書なら区別しないはずの清濁まできっちり書き分けているから、かえって新しい偽作だと見破る。整いすぎていることが偽物の証拠になるという、逆向きの推理が鋭い。

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