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玉勝間 / 五の巻 いせ物語真名本の事

伊勢物語に、眞名本と云ふ本あり。萬葉の書きざまにならひて、眞字して書たる物なり。六條ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ僞にて、後の物なり。まづすべての字のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ事のみぞ多かる。そが中に、闇うを苦勞、指之血を及後などやうに書けるは、たはぶれ書々にて、萬葉にもさるたぐひ有り。又東を熱間、云云にけりを迯利など書るも、清濁こそたがへれ、猶ゆるさるべきを、なんと云ふ辭に、何ノ字を用ひ、ぞに社、とに諾ノ字を用ひたるたくひ、いと心得ず。然のみならず、思へるを思惠流、給へを給江、又ここへかしこへなどの、へをも、みな江と書き、身をも、これをやなどの、をもをやと云ふ辭を、面親と書き、忘を者摺と書るなど、これらの假字は、今の世とても、歌詠む程の者などは、をさをさ誤る事無きをだに、斯く誤れるは、むげに物書くやうをもわきまへ知らぬ、えせ者のしわざと見えて、眞字はすべてとり難きものなり。然はあれども、詞は、世のつねの假字本とくらべて考ふるに、互ひに善き惡しきところ有て、かな本の惡しきに、此本の善きも、すくなからず。

新字:伊勢物語に、真名本と云ふ本あり。万葉の書きざまにならひて、真字して書たる物なり。六条ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ偽にて、後の物なり。まづすべての字のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ事のみぞ多かる。そが中に、闇うを苦労、指之血を及後などやうに書けるは、たはぶれ書々にて、万葉にもさるたぐひ有り。又東を熱間、云云にけりを迯利など書るも、清濁こそたがへれ、猶ゆるさるべきを、なんと云ふ辞に、何ノ字を用ひ、ぞに社、とに諾ノ字を用ひたるたくひ、いと心得ず。然のみならず、思へるを思恵流、給へを給江、又ここへかしこへなどの、へをも、みな江と書き、身をも、これをやなどの、をもをやと云ふ辞を、面親と書き、忘を者摺と書るなど、これらの仮字は、今の世とても、歌詠む程の者などは、をさをさ誤る事無きをだに、斯く誤れるは、むげに物書くやうをもわきまへ知らぬ、えせ者のしわざと見えて、真字はすべてとり難きものなり。然はあれども、詞は、世のつねの仮字本とくらべて考ふるに、互ひに善き悪しきところ有て、かな本の悪しきに、此本の善きも、すくなからず。

書き下し

伊勢物語に、真名本と云う本あり。万葉の書きざまにならいて、真字して書きたる物なり。六条の宮の御撰と、はじめにあげたれば、その親王の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ偽りにて、後の物なり。まずすべての字のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ事のみぞ多かる。そが中に、闇うを苦労、指之血を及後などように書けるは、たわぶれ書きにて、万葉にもさるたぐい有り。又東を熱間、云云にけりを迯利など書けるも、清濁こそたがえれ、猶ゆるさるべきを、なんと云う辞に、何の字を用い、ぞに社、とに諾の字を用いたるたぐい、いと心得ず。然のみならず、「思へる」を思恵流、「給へ」を給江、又「ここへ」「かしこへ」などの、「へ」をも、みな江と書き、身をも、これをやなどの、「を」「をや」と云う辞を、面親と書き、忘を者摺と書けるなど、これらの仮字は、今の世とても、歌詠む程の者などは、おさおさ誤る事無きをだに、斯く誤れるは、むげに物書くようをもわきまえ知らぬ、えせ者のしわざと見えて、真字はすべてとり難きものなり。然はあれども、詞は、世のつねの仮字本とくらべて考うるに、互いに善き悪しきところ有りて、かな本の悪しきに、この本の善きも、すくなからず。

現代語訳

伊勢物語には、真名本という本がある。万葉集の書き方にならって、漢字(真字)で書いたものである。「六条宮の御撰」と初めに掲げてあるので、その親王のなさったことかと思って読み進めると、とんでもない偽りで、後世のものである。まず全体の字の当て方がひどく拙く、だらしなくて正しくなく、納得のいかないことばかり多い。その中で、「くらう(暗う)」を「苦労」、「指之血」を「及後」などと書いているのは戯れ書きで、万葉集にもそういう類はある。また「あづま(東)」を「熱間」、「……にけり」を「迯利(にげり)」などと書いているのも、清音と濁音を取り違えてはいるが、まだ許せる。しかし「なん」という助辞に「何」の字を使い、「ぞ」に「社」、「と」に「諾」の字を使っている類は、まったく納得がいかない。それだけではない。「思へる」を「思恵流」、「給へ」を「給江」と書き、また「ここへ」「かしこへ」などの「へ」もみな「江」と書き、「身を」や「これをや」などの「を」「をや」という助辞を「面」「親」と書き、「忘(わすれ)」を「者摺」と書いているなど、これらの仮名遣いは、今の世でも歌を詠むほどの者ならほとんど誤ることがないのに、このように誤っているのは、まったく物の書き方もわきまえない、似非者のしわざと見えて、漢字の書き方はすべて取るに足りないものである。とはいえ、言葉のほうは、世間ふつうの仮名本と比べて考えると、互いに良いところ悪いところがあり、仮名本の悪いところで、この本のほうが良いところも少なくない。

解説

伊勢物語の真名本、つまり全文を漢字で書いた本を、宣長が偽書と断じた長い段の第一部である。巻頭に六条宮の撰とあるが、宣長は字の当て方を一つずつ調べて、後世の作だと見抜く。戯れ書きや清濁の違いは万葉にも例があるから許せる。しかし助辞に何・社・諾の字を当てたり、「へ」を「江」、「を」を「面」と書いたりするのは、古い仮名遣いを知らない証拠だという。宣長の武器は、契沖が確立した歴史的仮名遣いの知識である。平安の人なら決して混同しない音の区別を取り違えていれば、その本は平安のものではない。それでいて宣長は、本文の言葉には仮名本より優れた所もあると公平に認める。証拠で真偽を裁き、価値は別に量る態度である。

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