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玉勝間 / 十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事

そのゆゑは、父宮の、はじめて義兵をおこし給へりし、御勳功と申し、御身を捨てさせ給ひし、御孝と申し、此宮を立奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道關白、攝政、左大臣、右大臣などに、仰せあはされけるに、いづれも彼の宮の御事は、然るべからざるさまに申シ給ひけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さし置かれがたくて、又しも御トありける。此度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北國の宮を第三として、うらなはしめ給へるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり。此ト形を、義仲に見せられけるに、義仲、猶この御トに、北國の宮を、第一にせられざりける事をなん、いきどほり申シける。されど法皇の御心をもて、つひに四の宮をぞ定め奉り給ひける。此御事定まりしは、同シ月の十八日にて、廿日にぞ踐祚の儀有ける。件の御事どもは、月、輪殿の玉海と云ふ記錄に、つぶさに記されたるを、今はその意をとりて、大かたを記せり。凡ト筮者不再三而今度立王之沙汰之間、數度有御ト、神定無靈〓歟、と記されたる、まことにさる事なり。斯くて元曆元年七月廿八日、卽位の禮おこなはれける。

新字:そのゆゑは、父宮の、はじめて義兵をおこし給へりし、御勲功と申し、御身を捨てさせ給ひし、御孝と申し、此宮を立奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道関白、摂政、左大臣、右大臣などに、仰せあはされけるに、いづれも彼の宮の御事は、然るべからざるさまに申シ給ひけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さし置かれがたくて、又しも御トありける。此度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北国の宮を第三として、うらなはしめ給へるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり。此ト形を、義仲に見せられけるに、義仲、猶この御トに、北国の宮を、第一にせられざりける事をなん、いきどほり申シける。されど法皇の御心をもて、つひに四の宮をぞ定め奉り給ひける。此御事定まりしは、同シ月の十八日にて、廿日にぞ践祚の儀有ける。件の御事どもは、月、輪殿の玉海と云ふ記録に、つぶさに記されたるを、今はその意をとりて、大かたを記せり。凡ト筮者不再三而今度立王之沙汰之間、数度有御ト、神定無霊〓歟、と記されたる、まことにさる事なり。斯くて元暦元年七月廿八日、即位の礼おこなはれける。

書き下し

そのゆえは、父宮の、はじめて義兵をおこし給えりし、御勲功と申し、御身を捨てさせ給いし、御孝と申し、この宮を立て奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道関白、摂政、左大臣、右大臣などに、仰せあわされけるに、いずれもかの宮の御事は、然るべからざるさまに申し給いけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さし置かれがたくて、またしも御トありける。この度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北国の宮を第三として、うらなわしめ給えるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり。このト形を、義仲に見せられけるに、義仲、なおこの御トに、北国の宮を、第一にせられざりける事をなん、いきどおり申しける。されど法皇の御心をもて、ついに四の宮をぞ定め奉り給いける。この御事定まりしは、同じ月の十八日にて、廿日にぞ践祚の儀有りける。件の御事どもは、月の輪殿の玉海と云う記録に、つぶさに記されたるを、今はその意をとりて、大かたを記せり。凡そト筮は再三せず、而るに今度立王の沙汰の間、数度御トあり、神定めて霊無き歟、と記されたる、まことにさる事なり。かくて元暦元年七月廿八日、即位の礼おこなわれける。

現代語訳

そのわけは、父宮が初めて義兵を起こされたご勲功といい、御身を捨てられたご孝行といい、この宮をお立てすべきことに異議があってはなりません」と申したので、入道関白、摂政、左大臣、右大臣などにご相談になったところ、いずれもその宮のことはふさわしくないように申されたけれども、何しろ義仲の申すことなので捨て置くこともできず、またも占いがあった。今度は、例の夢のお告げのことによって、四の宮を第一、三の宮を第二、その北国の宮を第三として占わせなさったところ、神祇官・陰陽寮ともに、第一は最も吉、第二は半ば吉、第三は終始よくない、と出た。この占いの結果を義仲にお見せになると、義仲はなお、この占いで北国の宮を第一にされなかったことに憤りを申し立てた。けれども法皇のお考えによって、ついに四の宮にお決めになった。このことが定まったのは同じ月の十八日で、二十日に践祚の儀があった。これらのことは月輪殿(九条兼実)の『玉海』という記録に詳しく記されているのを、今はその意をとって大略を記したのである。「およそ占いは再三はしないものだ。それなのに今度の立王の件では何度も占いがあった。神はきっと霊験を示されまい」と記されているのは、まことにもっともなことである。こうして元暦元年(1184)七月二十八日に即位の礼が行われた。

解説

後鳥羽天皇の践祚までの経緯の続きである。義仲は北陸宮を推す理由に、父以仁王の挙兵の功と身を捨てた孝を挙げたが、公卿たちはこぞって難色を示す。義仲を無視できず再び卜し、四の宮が最吉と出たことで法皇の意向どおりに決着する。宣長が特に共感して引くのは、兼実の「占いは再三しないものなのに何度も繰り返した。これでは神の霊験もあるまい」という言葉である。易経の蒙卦にも、初めの占いには答えるが再三すれば瀆れる、という趣旨の句があり、占いを都合のよい答えが出るまで重ねれば、それはもう神意を問う行為ではない。宣長は神意を重んじるからこそ、人の思惑で占いを使い回すことを認めない。結論ありきの手続きへの批判として今も通じる。

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