神皇正統記 / 巻五 第八十二代 後鳥羽院
第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条[の]院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子まし〳〵しかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
書き下し
第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条の院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
現代語訳
第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉天皇の第四の子である。御母は七条院、藤原殖子で、入道修理大夫信隆の娘である。先帝(安徳天皇)が西海へお移りになったけれども、祖父の法皇(後白河院)の治める御世であったので、都は変わらなかった。摂政基通の大臣は、平氏の縁で供をされたが、諫め申す者たちがいたのだろうか、九条の大路のあたりからとどまられた。そのほか平氏の親族でない人々は、お供する人がなかった。都へお帰りになるようにとの院宣があったが、平氏は承知申さなかった。そこで太上法皇の詔によってこの天皇がお立ちになった。親王の宣旨さえなかった。まず皇太子とし、すぐに受禅の儀があった。翌年の甲辰にあたる年の四月に改元、七月に即位した。同じ父の兄弟に高倉天皇の第三の御子がおられたけれども、法皇がこの君をお選び定め申されたという。先帝が三種の神器を伴っておられたので、践祚の初めは例に違うことであったけれども、法皇は国の本来の主として正統の位をお伝えになった。皇太神宮と熱田の神がはっきりとお守りになることなので、天位はつつがなくあられた。平氏が滅んで後、内侍所(神鏡)と神璽は都へお帰りになった。宝剣はついに海に沈んで見えなくなった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在のことゝぞ申侍べき。神璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久の災にあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申伝ること侍にや。返々ひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目とし、福田とするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給まじき也。天照太神の勅に「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給れ。 平氏いまだ西海にありしほど、源義仲と云物、まづ京都に入、兵威をもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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