玉勝間 / 十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事
此卽位の御事、同記に、かへすかへす論あり。その大むねは止む事をえず、立王の御事は有といへども、卽位の禮を行はるる事にいたりては、三種ノ神寶の御歸京を待給ふべきわざなりとなり。その中に、不帶劍璽、卽位之例出來者、後代亂逆之基、只可在此事、と云ふ語あり。此一こと、ちよろづのこかねにも替へ難く、いともいとも尊くなむ。法皇は、後白川ノ天皇、主上は、安德天皇、三ノ宮は、守貞親王、後高倉ノ院と申す。三條ノ宮は、以仁、王、世に高倉ノ宮と申す。入道關白は松殿基房公、攝政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊、御門殿經宗公、右大臣は、すなはちこの玉海記し給へる、月ノ輪殿兼實公なり。
新字:此即位の御事、同記に、かへすかへす論あり。その大むねは止む事をえず、立王の御事は有といへども、即位の礼を行はるる事にいたりては、三種ノ神宝の御帰京を待給ふべきわざなりとなり。その中に、不帯剣璽、即位之例出来者、後代乱逆之基、只可在此事、と云ふ語あり。此一こと、ちよろづのこかねにも替へ難く、いともいとも尊くなむ。法皇は、後白川ノ天皇、主上は、安徳天皇、三ノ宮は、守貞親王、後高倉ノ院と申す。三条ノ宮は、以仁、王、世に高倉ノ宮と申す。入道関白は松殿基房公、摂政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊、御門殿経宗公、右大臣は、すなはちこの玉海記し給へる、月ノ輪殿兼実公なり。
書き下し
この即位の御事、同じ記に、かえすがえす論あり。その大むねは止む事をえず、立王の御事は有りといえども、即位の礼を行わるる事にいたりては、三種の神宝の御帰京を待ち給うべきわざなりとなり。その中に、剣璽を帯びずして、即位の例出で来なば、後代乱逆の基、ただこの事に在るべし、と云う語あり。この一こと、ちよろずのこがねにも替え難く、いともいとも尊くなむ。法皇は、後白川の天皇、主上は、安徳天皇、三の宮は、守貞親王、後高倉の院と申す。三条の宮は、以仁王、世に高倉の宮と申す。入道関白は松殿基房公、摂政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊御門殿経宗公、右大臣は、すなわちこの玉海記し給える、月の輪殿兼実公なり。
現代語訳
この即位のことについて、同じ記録(玉葉)には繰り返し論じてある。その大意は、やむを得ず新帝をお立てすることはあるとしても、即位の礼を行われることについては、三種の神器が都にお帰りになるのを待たれるべきだ、ということである。その中に「剣璽を帯びないで即位する例ができてしまえば、後の世の乱れと反逆の基は、ただこのことにあるだろう」という言葉がある。この一言は、千万の黄金にも替えがたく、まことに尊い。法皇は後白河天皇、主上は安徳天皇、三の宮は守貞親王で、後高倉院と申し上げる。三条宮は以仁王で、世に高倉宮と申し上げる。入道関白は松殿基房公、摂政は普賢寺殿基通公、左大臣は大炊御門殿経宗公、右大臣は、ほかならぬこの玉葉を記された月輪殿兼実公である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事寿永二年八月、新主を立て奉り給わむこと、法皇おぼしめしわずらいて、主上の還御を待ち奉るべしやはた剣璽は無しといえども、新主を立て奉るべしやのよし、御トを行われけるに、神祇官陰陽寮ともに、主上の還御を待ち奉り給うべきよし申しけり。然れどもなおおぼしめすよし有りて、重ねて御トありけるに、かれこれ同じからざる故に、なお議ありて、ついに新主を立て奉らるべきに定まりぬ。かくて高倉の天皇の御子たち、三の宮四の宮のうち、いずれをかと、おぼしめしわずらうによりて、またしも官寮に仰せて、御トありければ、官も寮も、三の宮吉なる由を申しけるに、女房に夢のさとしの有りける由にて、なお四の宮をとなむおぼしめしけるに、また木曾の義仲申すこと有りける。故三条の宮の御子の、加賀の国におわしますをこそ、立て奉らるべけれ。
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『玉勝間』十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事そのゆえは、父宮の、はじめて義兵をおこし給えりし、御勲功と申し、御身を捨てさせ給いし、御孝と申し、この宮を立て奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道関白、摂政、左大臣、右大臣などに、仰せあわされけるに、いずれもかの宮の御事は、然るべからざるさまに申し給いけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さし置かれがたくて、またしも御トありける。この度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北国の宮を第三として、うらなわしめ給えるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり。このト形を、義仲に見せられけるに、義仲、なおこの御トに、北国の宮を、第一にせられざりける事をなん、いきどおり申しける。されど法皇の御心をもて、ついに四の宮をぞ定め奉り給いける。この御事定まりしは、同じ月の十八日にて、廿日にぞ践祚の儀有りける。件の御事どもは、月の輪殿の玉海と云う記録に、つぶさに記されたるを、今はその意をとりて、大かたを記せり。凡そト筮は再三せず、而るに今度立王の沙汰の間、数度御トあり、神定めて霊無き歟、と記されたる、まことにさる事なり。かくて元暦元年七月廿八日、即位の礼おこなわれける。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条の院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左右の御うしろの御わきのとおりに、たんじゅとて、二すじ御よおろの程に下げられたり。御まえの左右の御わきに、ぎょくはいとて、玉をつらぬきて、つけられたり。御すそに、ひうちがたのからかねをつけられたれば、ふけんのごとくに、りやらめきならせ給う。御まえには、大じゅをむすび下げられたり。たちのひらおのごとく、むすびたれたり。高御座の事ぐしたるよし、しきじ申せば、やがて行幸あり。ぎょけんはこうとう給わる。璽はこれのやくなり。右の御わきにまいる。殿下のおおせに、そのしるしの御はこのうえにかけたるあみを、ゆびにかけつれば、とりはずし、あやまちはせぬぞとおおせあるに、御なさけの有りがたく、心もつよつよしくおぼえて、あやまち無し。高御座へ事ゆえなく参りつきぬ。とばりあげの役は、はくの三位のむすめなり。みょうぶ蔵人四人、やくの内侍六人、うらこきそおうこきもののぐ、行幸たか御くらへなれば、御さきのみょうぶ四人、御さきに立つ。その後かみあげの内侍二人、二行にならびて参る。たか御くらの御はしの左右に、ないしたちとまれば、殿下御簾のやくにまいり給いぬ。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在のことゝぞ申侍べき。神璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久の災にあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申伝ること侍にや。返々ひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目とし、福田とするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給まじき也。天照太神の勅に「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給れ。 平氏いまだ西海にありしほど、源義仲と云物、まづ京都に入、兵威をもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院其比ほひは昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。 三種の神器の事は所々に申侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは円規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給けるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代の宗廟にまします。宝剣も正体は天の叢雲の剣と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅国より道行と云法師、来てぬすみたてまつりしかど、神変をあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。
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