玉勝間 / 八の巻 降誕
同記、寛和元年四月廿八日壬寅、早朝罷出、寅時降誕女子、不逢產間、雖馳向、產已遂了とあり。誕生を降誕と云ふは、みかどにのみ申すやうなれども、さも有らざりしなり。是れは實資公の、みづからの御女の生れ給へる事をしも、斯くしるし給へり。
新字:同記、寛和元年四月廿八日壬寅、早朝罷出、寅時降誕女子、不逢産間、雖馳向、産已遂了とあり。誕生を降誕と云ふは、みかどにのみ申すやうなれども、さも有らざりしなり。是れは実資公の、みづからの御女の生れ給へる事をしも、斯くしるし給へり。
書き下し
同じ記に、寛和元年四月二十八日壬寅、早朝罷り出ず、寅の時女子降誕す、産の間に逢わず、馳せ向かうと雖も、産已に遂げ了る、とあり。誕生を降誕と云うは、みかどにのみ申すようなれども、さも有らざりしなり。是れは実資公の、みずからの御女の生れ給える事をしも、斯くしるし給えり。
現代語訳
同じ日記(小右記)に「寛和元年四月二十八日壬寅、早朝に退出した。寅の刻に女子が降誕した。出産の間には居合わせなかった。駆けつけたけれども、出産はすでに終わっていた」とある。誕生を「降誕」と言うのは、天皇についてだけ申すようであるが、そうでもなかったのである。これは実資公が、ご自分の娘がお生まれになったことを、このように記されたのである。
解説
「降誕」という語が、昔は天皇や聖人に限らず使われていたことを示した段である。江戸時代には「降誕」は天皇の誕生や釈迦の誕生などに用いる、ことさら尊い言葉とされていた。ところが藤原実資の小右記では、自分の娘の誕生を「女子降誕」と書いている。宣長は、敬語の使い分けが時代によって変わること、後世に特別な重みをもつようになった言葉も、もとはもっと広く使われていたことを、一つの用例で鮮やかに示す。また、勤めのために出産に立ち会えず、駆けつけたときにはもう生まれていたという記事からは、千年前の父親の姿が生き生きと伝わってくる。公の記録であるはずの日記に、わが子の誕生を尊い言葉で書き込んだ実資の喜びも透けて見える。言葉の格が時代とともに上がり下がりすることを知ると、古典の敬語を今の感覚で読む危うさにも気づかされる。
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